地名の由来
大阪の堀は、掘った土で街を上げ、空襲の瓦礫で埋め戻された
立売堀、江戸堀、京町堀、土佐堀、堀江、阿波座。大阪の西区あたりを歩くと、水に関係する地名がやたらと目に付く。しかし川はどこにもない。
答えは単純で、全部そこに川があった。そして埋められた。
大阪市建設局が公開しているコラムに、埋め立てられた堀川の名前が列挙されている。数えると15本ある。この記事では、その15本がなぜ掘られ、なぜ埋められたのかを、公式資料でたどる。掘った理由も埋めた理由も、想像していたものとは違った。
大阪市が公式に列挙している15本
まず一覧を挙げる。大阪市建設局「コラム2『水の都』大阪」に「埋め立てられたおもな堀川」として並んでいるものだ。
| 堀川名 | 堀川名 | ||
|---|---|---|---|
| 1 | 天満堀川 | 9 | 阿波(座)堀川 |
| 2 | 長堀川 | 10 | 立売堀川 |
| 3 | 高津入堀川 | 11 | 薩摩堀川 |
| 4 | 難波新川 | 12 | 堀江川 |
| 5 | 西横堀川 | 13 | いたち川 |
| 6 | 江戸堀川 | 14 | 十三間川 |
| 7 | 京町堀川 | 15 | 曽根崎川 |
| 8 | 海部堀川 |
いま水面が残っているのは、東横堀川と道頓堀川くらいだと同コラムは記している。船場と島之内を囲んでいた水路網は、ほぼ地面の下の記憶になった。
掘った理由は、舟運だけではなかった
堀を掘った目的といえば、まず舟運を思い浮かべる。荷物を運ぶための水路だ。それは間違いではないが、順番が違った。
同コラムによれば、計画的な堀川の最初は秀吉が大坂城の外堀として掘った東横堀川(天正13年=1585年、または文禄3年=1594年)である。これは防御のための堀だ。
問題は江戸時代に入ってからで、公式の説明はこうなっている。
江戸時代になると大坂の町の発展にともない、淀川デルタ地帯の整地がもとめられ、低地の排水と地面のかさ上げ用の土砂の必要から、堀川が掘られたものと考えられ、その堀川は舟運に利用された
かさ上げ用の土砂の必要から。
つまり、こういうことだ。大坂の中心部は淀川が運んだ土砂でできた低湿地で、そのままでは街を建てられない。地面を上げる必要がある。その土をどこから持ってくるか。掘ればいい。
掘った穴が水路になり、掘り出した土が地面になった。 街を作る作業と、川を作る作業が、同じ一つの作業だったわけだ。舟運は「その堀川は舟運に利用された」と後置きで書かれている。結果として使えたから使ったという順序に読める。
明治以降も堀は掘られ続けるが、こちらは目的が変わる。同コラムは「このときの主目的は舟運にあり、名称も運河といわれた」と区別している。堀川と運河は、呼び名が違うだけでなく、作られた動機が違う。
埋めた理由は、空襲の瓦礫だった
そして埋め立てである。ここが、この記事で一番書きたかったところだ。
戦後になって、戦災の瓦礫処理のため、下水道の完備で不要となった堀川は埋め立てられ今では東横堀川・道頓堀川などが残るだけとなった
戦災の瓦礫処理のため。
大阪は8回の大規模な空襲を受け、市街地の大半が焼けた(大阪空襲はどこが焼けたのか)。焼け跡には、膨大な量の瓦礫が出る。その行き先が、川だった。
考えてみれば合理的ではある。運ぶ距離が短い。穴はもう空いている。下水道が整備されて排水路としての役目も終わっていた。三つの条件が揃った。
しかし構造として見ると、なかなかのことが起きている。
掘った土で街の地面を上げ、その街が焼けて出た瓦礫で、掘った穴を埋め戻した。
三百年かけて往復したことになる。大阪の堀の下には、その街自身の残骸が入っている。
江戸堀川 — 338年の生涯
年代がはっきり分かる例を一つ挙げる。大阪市西区の公式ページ「西区のあらまし」に、町名の由来として記載がある。
町名は、元和3年(1617)に開削された江戸堀川沿いに町域が位置したことに由来。堀川の名称起源は、はっきりしないが、徳川幕府の統治下に入って最初に掘った堀割を記念して付けたものと思われる
江戸堀川は水質浄化のため昭和11年ごろ、川の起点部分に可動堰が設けられたりもしたが、昭和30年9月には埋め立てられた
1617年から1955年9月まで。338年である。
大坂夏の陣の2年後に掘られ、大阪大空襲の10年後に埋められた。豊臣が滅びた直後に生まれて、戦後の復興期に消えたわけで、この川は近世大坂の全期間とちょうど重なっている。
名前の由来が「徳川幕府の統治下に入って最初に掘った堀割を記念して」というのも、時期を考えれば納得がいく。
地名だけが残った
西区の公式ページには、他の町名の由来も並んでいる。どれも、いま存在しない水の記録だ。
阿波座(あわざ) — 阿波(徳島)の商人がこの地に住みついて座をつくり商いをしていたという説と、阿波屋(西村)太郎助の所領地だったという説の二説がある。すぐそばを阿波堀川が流れていた。
安治川(あじがわ) — こちらは川の名がそのまま地名になった例だが、来歴が変わっている。貞享元年(1684年)、河村瑞賢が幕命により淀川・大和川の治水対策として開削したもので、河口付近にあった九条島を新しく掘り割って流路を直線化した。開削当時は単に「新川」と呼ばれ、後に「この地が安らかに治まるように」との願いから、あるいは瑞賢の通名(河村瑞賢安治)から安治川と呼ぶようになった、と公式は記す。
つまり安治川は、島を真っ二つに割ってできた川だ。割られた側の記録は難波島跡として残っている。安治川は埋められずに今も流れており、15本のリストには入っていない。
立売堀(いたちぼり) — 西区公式は由来として三つの説を併記している。①大坂冬の陣・夏の陣の際に伊達家がここに壕を掘って陣地とし、その跡を掘り進んで川にしたので伊達堀(だてぼり→いたちぼり)と呼ばれ、後に沿岸で材木の立売(たちうり)が許されたため字を「立売堀」に改めたが読みは「いたちぼり」のまま残した。②阿波屋西村太郎助家の所有地を割って売ったので断売堀・居断堀。③イタチがいたので鼬堀。
読み方と漢字が一致しない理由が①で説明されている。字だけ変えて、音を変えなかった。 難読地名の由来としてはかなり明快な部類だ(大阪の難読地名の由来でも触れている)。
堀江(ほりえ) — 堀江川が北堀江と南堀江の境界だった。川が消えたあと、その川筋が町名の境界線として残っている。地図で北堀江と南堀江の境を見ると、そこにかつて水が流れていた。
碑が残っている堀もある
薩摩堀川には、跡地に碑が建っている。大阪市教育委員会の顕彰史跡(碑番21「薩摩堀川跡」)で、場所は西区立売堀4-2の薩摩堀北公園内である。
ここで一つ注意しておきたい。薩摩堀川の跡地を「中之島図書館付近」とする記述をたまに見かけるが、これは誤りの可能性が高い。 中之島には薩摩藩の蔵屋敷(土佐堀2丁目付近)があったため、そちらと混同されたと考えられる。商人由来の運河である薩摩堀川は、2km以上離れた西区の阿波座・立売堀一帯にある。
蔵屋敷と運河、どちらも「薩摩」が付くために起きた混同だろう。痕跡をたどるときは、同じ名前が別のものを指していないかを確認する必要がある。
まとめ
大阪の「堀」の付く地名は、例外なく水の記録である。ただしその川は、単に物を運ぶために掘られたのではなかった。街の地面を上げる土を得るために掘られ、掘られた穴が水路になった。
そして戦後、その街が焼けて出た瓦礫で埋め戻された。
いま立売堀や江戸堀を歩いても、水の気配はほとんどない。だが地名だけは残っている。名前は、地形が消えたあとに残る最後の痕跡だ。街で消えた川を見つける手順は暗渠とは何かにまとめてある。
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