難波島跡(木津川に消えた中州・月正島)|何があった場所か
かつて木津川の河口部にあった中州・難波島。元禄12年(1699)に河村瑞賢が島を貫く水路を開削して川筋をまっすぐにし、島は西の難波島と東の月正島に二分されたと伝わる。その後の埋立・陸続き化で島の姿は消え、現在は大正区・浪速区の市街地となっている。
時のながれ
- 江戸初期以前 — 木津川の河口部に中州として難波島があり、船の往来を妨げていたとされる。
- 元禄12年(1699) — 河村瑞賢が難波島を開削し木津川の水流を改良。島の中ほどを新水路(現在の木津川筋)が貫き、西側は難波島、東側は月正島(がっしょうじま)と呼ばれるようになったと伝わる。
- 明治14年(1881) — 大阪府が難波島西部を開削して三軒家川を拡幅し、三軒家に倉庫10棟を持つ「舟囲場」を開設。
- 明治〜大正期 — 木津川筋に工場・造船所が集積し、大正8年(1919)には造船所32社が並んだとされる。
- 現代 — 埋立と陸続き化で島の形は消え、難波島側は大正区(三軒家方面)、月正島側は浪速区に属する市街地となった。島の名は日常の地名からはほぼ姿を消している。
備考
開削=元禄12年(1699)・河村瑞賢はWikipedia(木津川)で確認。島の二分と月正島の命名、現在の帰属(難波島側=大正区・月正島側=浪速区)は140B(大阪の地名連載)で確認。ピンは両区を分ける現・木津川筋(大浪橋付近)に置いた推定位置。一次資料(大阪市史等)未到達のため資料候補。昭和57年まで渡船があったとの情報は個人サイト由来のため不採用。
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近くの痕跡
- 三軒家川上流部跡(百済橋跡碑)(水の痕跡・約397m)
- 十三間堀川跡(阪神高速堺線下・浪速神社西側)(水の痕跡・約1.2km)
- 第1回大阪大空襲の中心焼失域(ミナミ〜市街西部)(戦の痕跡・約1.2km)
- 堀江川跡(北堀江・南堀江間)(水の痕跡・約1.5km)
参考・出典
- 木津川 (大阪府) - Wikipedia(Wikipedia)
- 島の国の島々の街【後編】| 大阪の地名に聞いてみた(140B(大阪の出版社・地名連載))