地名の由来
福岡の怖い地名の由来 — 筑紫・香椎・水城は何の記録か
「筑紫」「香椎」「箱崎」。福岡の地名を並べていくと、字面の落ち着かないものが混じる。
先に結論を書く。福岡の不穏な地名は、たいてい二種類のどちらかだ。大陸に向いた土地が受け取った戦の記録と、死者を祀った場所の記録。残りは、音が先にあって漢字が後から来ただけの地名である。
ちなみに「福岡」という地名自体は、この土地のものではない。黒田長政が慶長六年(1601)に築城した際、黒田氏の故地である備前国邑久郡福岡にちなんで名付けた、と『角川日本地名大辞典』も『福岡県史』も記す(国立国会図書館レファレンス協同データベース、回答館は岡山県立図書館)。県名も市名も、岡山から持ち込まれた。
そのうえで順に見ていく。ただし全部がすっきり解けるわけではない。事典どうしが正面から喧嘩している地名もあれば、市の公式ページにも由来の書かれていない川もある。
筑紫(つくし) — 「命が尽きる」と事典に書いてある
九州全体の古称にもなった「筑紫」。もとは今の筑紫野市原田あたりを指す地名だった、と平凡社『改訂新版 世界大百科事典』は説明する。
問題は由来だ。小学館『精選版 日本国語大辞典』の補助注記は、『釈日本紀』が引く筑後国風土記の逸文から三つの説を挙げている。筑前と筑後の境にある山の急坂で馬具の鞍韉(したくら)が尽きたから。その山に住むあらぶる神を「命尽(いのちつくし)の神」といったから。その山で死者を葬る棺のために「山の木尽さむ」としたから。いずれも「ツクシ(尽)の義」だという。
通行人の命が尽き、棺を作る木が尽きる。事典が正面からそう書いている地名は、そう多くない。
ところが同じコトバンクに並ぶ『改訂新版 世界大百科事典』(倉住靖彦執筆)は冷たい。「その名の由来は明らかでなく、《釈日本紀》は先儒の説として4説を紹介しているが、いずれも付会のきらいを免れない」。付会とは、こじつけのことだ。説の数からして三説と四説で食い違い、片方は説そのものを退けている。
水城(みずき) — 名前ごと『日本書紀』に書き残された堤
福岡には、由来を推測しなくていい場所もある。太宰府市の「水城」だ。
平凡社『日本歴史地名大系』は『日本書紀』天智天皇三年(664)是歳条を引く。「対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に、防と烽とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名けて水城と曰ふ」。名付けの瞬間が史書に残っている、めずらしい地名である。
前年の663年、倭は白村江で唐・新羅の連合軍に敗れている。水城はその翌年に築かれた、大宰府を守るための人工の堤だ。同書は全長約1.2キロ、高さ約10メートル、基底部の幅約80メートルとする。もっとも講談社『国指定史跡ガイド』は高さを13メートルとしており、数字は資料で動く。同ガイドは、土塁の海側に幅60メートル・深さ4メートルの水濠が発見されていることから、「水城」の名はこの濠に由来するとしている。
土を盛って都を囲うという発想は、時代と場所を変えてまた現れる。京都の御土居は豊臣秀吉が総延長22.5キロにわたって築いたものだ。水城のほうが900年以上早い。
香椎(かしい) — 天皇が没した地の「廟」
福岡市東区の「香椎」。
『日本歴史地名大系』によれば、この地名の古い表記は橿日・訶志比・樫日で、「香椎」の字は後から来た。『日本書紀』神功皇后摂政前紀などにみえる「筑紫の橿日宮」で仲哀天皇が没したとされ、それを祀ったのが香椎宮の起源であり、そのため廟と称した、と同書は記す。古くは香椎廟。神社ではなく、廟(みたまや)だった。
よく見かけるのは「仲哀天皇の棺を椎の木に立てかけたから棺懸椎(かんかけのしい)」という説明だ。字面としては確かに怖い。ただ、これは今回、どの事典でも確認できなかった。香椎宮の公式サイトも、古宮について「地名となった御神木『香椎』は今もここに残ります」と御神木のほうを由来として案内していて、棺には触れていない。
流通量の多い説明が、資料に載っているとはかぎらない。
箱崎 — 三つの箱を埋めた場所
同じ東区の「箱崎」。筥崎宮の門前町である。
『日本歴史地名大系』は、平安後期の学者・大江匡房の『筥埼宮記』を引いて、「戒定恵」を三つの箱に入れて埋めたという伝承から、この地を筥崎と称するようになったと記す。戒・定・慧は仏教の三学、修行の柱にあたる。それを箱に納めて土に埋めたという話だ。
誰が埋めたのかは資料で違う。世阿弥作とされる謡曲「箱崎」では、神功皇后が黄金の手箱を松の根元に埋めたことになっている、と『精選版 日本国語大辞典』は伝える。同辞典は箱崎を「元寇の古戦場」とも書く。
その元寇に備えて築かれた石の防壁を「元寇防塁」と呼ぶのは、実は後の人の命名である。講談社『国指定史跡ガイド』は、大正時代に福岡の考古学の発展に貢献した医学部教授・中山平次郎による命名で、本来の呼び名は石築地(いしついじ)だと明記している。
博多 — 事典どうしが正面から喧嘩している
調べていて一番おもしろかったのは「博多」だった。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースに、大野城まどかぴあ図書館が10点の資料を挙げて答えた事例が残っている。『角川日本地名大辞典』が並べる説は四つ。人や物産が多く土地が広博であるから。鳥が羽をのばしたような地形で「羽形」と称されたから。周囲を河海で囲まれた島状の地形をいう「筥」から。船舶が停泊する潟から。
ここから資料が割れる。『博多郷土史事典』は羽形説と博多説を紹介したうえで「いずれも俗説に過ぎない」と切り捨てる。一方『福岡歴史探訪 博多区編』は「最も妥当とされているのは『海域、土地博く人、物産多し』で『博多』と呼ばれた」と書く。片方が俗説と断じた説を、もう片方は最も妥当としている。
水の側に立つ説もある。池田善朗『福岡都市圏の古い地名』は「干・潟→ハカタ→博多」とし、同じ著者は別の著書で「剥グ・処(タ)」、つまり崖地や砂山が剥がれ落ちた処という解釈に自説を改めている。研究者が自分の説を修正した過程まで記録に残っている地名は珍しい。
なお「博多」という文字自体は、『続日本紀』の759年3月24日条に「博多大津」として現れるのが初見だと『福岡県百科事典』は記す。名前は1200年以上動いていない。由来だけが決まらない。
由来が決まらないまま説が並んでいる状態は、大阪の「難波」でも同じだ。
姪浜と生の松原 — 漢字は後から来た
「姪浜(めいのはま)」の「姪」は何なのか。
『日本歴史地名大系』は『筑前国続風土記』を引いて、姪浜は古くは袙浜(あこめばま)といったともいい、神功皇后が朝鮮半島からの帰りにこの浜へ着いて袙の衣を干したことに由来する、と記す。袙は装束の下着にあたる衣だ。
伝説だけの話ではない。正安四年(1302)の文書に、実際に「袙浜」の表記が使われていることを同書は示している。音が先にあり、漢字は後から選ばれた。では「姪」がなぜ選ばれたのかというと、今回調べた範囲では説明が見つからなかった。字だけを見ても答えが出ないのは、堺の「百舌鳥」と同じである。
西区の「生の松原」も説が二つ残る。神功皇后が松の枝を逆さに挿し、勝って帰れるならこの枝が生きるだろうと祈ったところ生きた、という説。もう一つは、壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)を祀る社にちなむという説だ。壱岐真根子は、武内宿禰が讒言で殺されそうになったとき容姿が似ていたため身代わりとなって自刃したと『日本書紀』にみえる人物だと、講談社『日本人名大辞典』は説明する。
身代わりに死んだ人の名が地名に残った、と読むこともできる。ただしどちらも『筑前国続風土記』の挙げた説で、事典もどちらとも決めていない。
由来が見つからなかった地名
意外だったのは、有名な地名ほど答えが出ないことだった。
「早良(さわら)」。『日本歴史地名大系』の早良郡の項は、表記の異同を細かく書く。『延喜式』は「早良」、『和名抄』は写本によって字が違い、訓は「佐波良」あるいは「サハラ」。ところが語源には一言も触れていない。天平宝字二年(758)の文書には早良勝(さわらのすぐり)という姓の人々が並んでいるので、地名が先か氏族名が先かも決めにくい。
「老司(ろうじ)」。同じ事典は、建武三年(1336)の文書に「老子村」、観応三年(1352)の注進状に「廊子村」とあることを示す。老子、廊子、老司。読みが先にあって字が定まらなかった典型だが、ではもとが何の音だったのかは書かれていない。
「樋井川(ひいかわ)」に至っては、コトバンクに項目がなく、福岡市城南区の公式ページにも由来の記載がない。ただし、この川が何をした川かは資料で確定できる。福岡県の樋井川水系河川整備計画は、昭和38年6月の豪雨で家屋の浸水が5,233戸発生したと記す。平成21年7月の中国・九州北部豪雨でも床上浸水172戸、床下浸水238戸。名前の由来はわからないが、水害の記録は残っている。
地名の由来がわからないことと、その土地が安全であることは、別の話だ。
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