薩摩堀川跡(薩摩堀北公園・碑)|何があった場所か
薩摩堀川は江戸期に開削され戦後に埋め立てられた運河の跡とされる。跡地には「薩摩堀川跡」の碑が大阪市顕彰史跡として西区立売堀4-2の薩摩堀北公園内に建てられている。黒砂糖など南国産物を扱う薩摩問屋が集まっていたことが名の由来とされる。

近くの痕跡
- 立売堀(いたちぼり)川跡(水の痕跡・約107m)
- 阿波堀川跡(西本町・阿波座)(水の痕跡・約249m)
- 海部堀川跡(靱本町・靱公園西側)(水の痕跡・約314m)
- 西横堀川跡(阪神高速環状線下)(水の痕跡・約513m)
時のながれ
- 1628-1630年(寛永5-7年) — 大坂天満組の惣年寄・薩摩屋仁兵衛により開削工事が行われ運河が完成したとされる。黒砂糖・琉球表など南国産物を扱う薩摩問屋が7軒あり、薩摩国の商船の出入りが多かったことから名付けられたと伝わる。
- 1951年(昭和26年)頃 — 戦災瓦礫処理・下水道整備により堀川が埋め立てられたとされる(大阪市は、埋め立てられた主な堀川の一つに挙げる)。
- 昭和35年(1960年) — 大阪市が「薩摩堀川跡」の碑を西区立売堀4-2の薩摩堀北公園内に建立(大阪市顕彰史跡、碑番21)。
- 現代 — 跡地は中央大通・新なにわ筋等の道路用地や薩摩堀北公園となっている。旧町名「薩摩堀北之町」「薩摩堀東之町」などの薩摩堀の町々は1960年の町名変更で消滅し、現在は立売堀4〜6丁目東部がかつての薩摩堀地区にあたる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 大阪市教育委員会は「薩摩堀川跡」の所在地を西区立売堀四丁目2番としている。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 開削年(1628年着工・1630年完成)と埋立の時期は、角川日本地名大辞典に由来するとみられる記述で確認したもので、一次資料までは到達できていない。
- 碑や公園入口の正確な座標は現地で確認できていない。ピンは立売堀四丁目の町域を示す。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
⛩ この土地の福跡
同じ土地の、受け継がれてきた側の顔だ。
- サムハラ神社碑の建つ立売堀に鎮座する社。
参考・出典
5件出典に基づいて掲載している
- 大阪市:大阪市顕彰史跡(西区・碑番21「薩摩堀川跡」所在地・建立年度を記載)
大阪市教育委員会(自治体公式) - 大阪市:コラム2「水の都」大阪(埋め立てられた主な堀川一覧に薩摩堀川を含む)
大阪市(建設局) - 薩摩堀川 - Wikipedia
Wikipedia - 古地図で「薩摩堀川跡」碑を歩く | 幕末散歩
個人郷土史ブログ(現地取材・碑の写真あり) - 立売堀 - Wikipedia(立売堀4-6丁目東部が薩摩堀地区と明記)
Wikipedia
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :時のながれの現代の項の旧町名を改めた。「薩摩堀◯丁目」としていたが、出典に載る薩摩堀の旧町名は薩摩堀北之町・薩摩堀東之町などで、丁目のつく町名は無かったため、そのとおりに書いた。9月29日には、時のながれの3項目と参考・出典の発行元の欄に残っていた、資料をどう確かめたかの書き込みを外した。開削と埋立の年が一次資料で確かめられていないことは、まだ分かっていないことに記載がある。
この場所について
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