長堀川跡(長堀通)|何があった場所か

江戸初期に開削され、昭和期に埋め立てられた堀川の跡。現在の長堀通の下にあたり、「心斎橋」「長堀橋」などの橋名が地名として残る。

近くの痕跡
- 堀江川跡(北堀江・南堀江間)(水の痕跡・約529m)
- 西横堀川跡(阪神高速環状線下)(水の痕跡・約682m)
- 道頓堀川(1615年完成の運河)(地の痕跡・約709m)
- 薩摩堀川跡(薩摩堀北公園・碑)(水の痕跡・約750m)
時のながれ
- 江戸初期(1622年頃とされる) — 伏見から移住した町人ら(三栖清兵衛・池田屋次郎兵衛・伊丹屋平右衛門・岡田新三ら)が中心となり長堀川を開削。東横堀川と木津川を結ぶ延長約2.4〜2.5km、幅30〜50mの運河として整備された。
- 江戸期 — 廻船問屋・材木問屋・各藩屋敷などが両岸に並び、水運の幹線として繁栄。心斎橋・長堀橋など多数の橋が架けられた。
- 昭和35〜46年(1960-1971) — 戦後、市内の自動車の増加等により、川を埋め立てて道路として活用するため段階的に埋立(大阪市建設局の資料)。大阪市は堀川全般について、下水道の完備で不要となった堀川が戦災の瓦礫処理のため埋め立てられたとも記す。四ツ橋以東は昭和35〜37年、以西(西長堀)は昭和42〜46年に埋立完了。跡地は長堀通となり、地下にクリスタ長堀が整備された。
- 現代 — 長堀川自体は消滅したが、「心斎橋」「長堀橋」など旧橋名が交差点・駅名・地名として現存する。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 埋立の経緯(時期と理由)は、大阪市建設局の資料で確認した。開削の年と開削者については、掲出の出典に記載がない。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 開削年を1622年頃とする記述は二次資料によるもので、一次資料では確認できていない。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 大阪市:コラム2「水の都」大阪(建設局)
大阪市(公式) - 大阪市:道路の昔の姿について(長堀通)みちるくんのつぶやき(建設局PDF)
大阪市(公式) - まちあるき「長堀川はなぜ消えてしまったの?」
大阪市中央区オフィシャルサイト「大阪中心」
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :時のながれの戦後の埋立の項を改めた。以前は「瓦礫処理・下水道整備により不要となり」と理由を一つにしていたが、大阪市建設局の資料は長堀川の埋立の理由を自動車の増加に伴う道路への転用と記すため、両方の説明を並べた。編集部の調査メモの「開削と埋立の経緯は大阪市の公式サイトで確認した」も、出典で確かめられたのは埋立の時期と理由だけなので、そのとおりに改めた。
この場所について
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