歴史の痕跡
大坂冬の陣の本陣跡はどこか — 家康の茶臼山、秀忠の御勝山、埋められた惣構の堀
家康の本陣はいまの天王寺公園の茶臼山、将軍秀忠の本陣は東へ2.2キロの生野区・御勝山に置かれた。どちらの丘でも、陣に伴う可能性のある堀や建物跡が発掘されている。豊臣方の惣構の堀は冬の陣の和議で外堀ごと埋められ、天王寺区の「空堀町」という町名に痕跡を残す。
目次(8項目)
大坂冬の陣(慶長19年・1614年)で徳川家康が本陣を置いたのは、いまの天王寺公園の中にある茶臼山だ。将軍だった徳川秀忠の本陣は、そこから東へ2.2キロ離れた生野区の御勝山(当時は岡山と呼ばれた丘)に置かれた。そして豊臣方が城のまわりに巡らせていた惣構(そうがまえ)の堀は、同じ年の和議で外堀ごと埋められ、いまは天王寺区の「空堀町」という町名に痕跡を残している。
茶臼山は大坂冬の陣徳川家康本陣跡であると同時に、半年後の大坂夏の陣真田幸村本陣跡でもある。ひとつの丘に二つの名がつくのはそのためだ。攻める側と守る側が同じ丘に立った経緯は大坂の陣の痕跡を歩くに、幸村(信繁)の最期の伝承は真田幸村の終焉の地を歩くにある。

二つの本陣は、2.2キロ離れた二つの丘だった
家康の本陣について、大阪府の文化財紹介ページはこう記す。
茶臼山は大坂冬ノ陣(1614)の際に徳川家康の本陣があったところですが
秀忠の本陣については、大阪市建設局の史跡紹介ページが御勝山古墳(生野区勝山北三丁目16)を挙げている。
大坂冬の陣のとき、徳川秀忠の陣所になり、戦勝を記念して御勝山と呼ばれるようになったという。
市の資料は、名前の由来を「〜という」で結ぶ。戦勝にちなんで改めたという話は、伝承の形で記されている。
この二つの丘の位置関係を、大阪城天守閣の「豊臣石垣コラム」が数字で押さえている。
御勝山と茶臼山は直線距離で2.2km、真田出丸があった真田山とも約2.2km離れています。標高は茶臼山が27.2m、御勝山が12.2m(『マップナビおおさか』より)と御勝山のほうが大分低いのですが、我孫子台地の先端に立地し、真田丸や大坂城がある北方や東から大坂へと繋がる街道などへの視界は開けていたと考えられます
同コラムは、御勝山古墳のすぐ東側の交差点が俊徳街道・鶴橋街道・桑津街道の交わる交通の要衝でもあったと書き添える。低いかわりに、街道を見張れる位置だったということになる。
高さの値は資料によって少し振れる。国土地理院の地理院地図で5メートルメッシュの標高を読むと、茶臼山の山頂付近が26.2メートル、御勝山が12.3メートルだった。上の27.2メートルは大阪城天守閣が別の資料から引いた値で、丘のどこを測るかでも変わる。いずれにせよ、二つの本陣の高さの差はおよそ15メートルある。


御勝山の地面には、急すぎる堀が残っていた
御勝山古墳は5世紀前半に築かれた前方後円墳とされる。大阪市の説明はこうだ。
岡山ともいわれ、前方後円墳であったと推定される。前方部は道路(勝山通)と公園に姿を変え、西側は周濠の名残りをとどめるのみである。
古墳としての姿はすでに大きく削られている。その残った後円部で、昭和62年(1987年)から64年にかけての発掘調査が行われている。大阪城天守閣のコラムによれば、墳丘の北側で幅5メートル以上・深さ約4メートル、西側で深さ約3.5メートルの掘割が見つかった。注目したいのは角度だ。
墳丘側の堀の傾斜角はいずれも約70度ときわめて急傾斜で掘られており、防御を目的として掘られた遺構であると考えられます。堀底からはほぼ完形の丸瓦や平瓦が出土しています。
70度は、ほとんど壁である。古墳の周濠ならこうはならない。同コラムは、前方部側でも石列を伴う地山の落ち込みが見つかり、それを覆う地層から中世の土器や16世紀の瀬戸美濃焼の皿が出ていることから、冬の陣の秀忠本陣に伴う遺構の可能性があるとする。
当時の姿を描いた絵も残る。東京国立博物館が所蔵する『大坂冬の陣図屏風』には、望楼を持つ秀忠の居所と、その手前に向きの違う建物がいくつも描かれ、周囲を竹矢来が囲んでいる。コラムは、建物が後円部の平坦面に収まらないことから、秀忠本陣は古墳の高まりを超えて広がっていたと推測する。
茶臼山からは、古墳の痕跡が出ずに本陣の跡が出た
家康側の丘でも、地面は正直だった。茶臼山は昭和61年(1986年)に古墳の確認調査として発掘されている。ところが大阪城天守閣のコラムによれば、結果は予想と逆だった。

発掘調査を行う前には古墳に関する遺構や遺物が発見されると考えられていたのですが、予想に反し発掘した範囲では古墳時代の遺構や遺物はまったく出土しませんでした。その代わり、北西裾部で瓦を敷いた建物跡(図2-7)や竈(かまど、図2-5)などが見つかりました。また、東裾部では狭い土橋(図2-8)を挟んで幅10m、深さ5mを越える大規模な掘り割(図2-9)が見つかっています。
さらに、北西の裾部からは金箔を貼った土師器の皿や、携帯用と考えられる小さな硯が出ている。金箔の皿と携帯用の硯。総大将の陣所という言葉が、急に具体的な道具の話になる。
丘そのものの成り立ちは、いまも確定していない。大阪市のコラムは、円筒はにわの破片が認められないことから古墳説に疑問があるとしつつ、隣の河底池を和気清麻呂が延暦7年(788年)に上町台地を東西に横断して掘った堀川の名残とし、その土を積み上げたものが茶臼山ともいわれる、という別の由来も併記する。一方で大阪府のページは、平安時代以前に築かれた盛土が古墳の築造時によく用いられた工法と類似すると明らかにされたため「古墳の可能性は残されています」と結ぶ。「茶臼山古墳および河底池」が大阪府の史跡に指定されたのは昭和47年3月31日である。

主戦場は、標高1メートルもない湿地だった
本陣が高いところにあった一方で、冬の陣の主戦場は低かった。大阪市建設局は、鴫野古戦場跡(城東区)の解説でこう書く。
大坂冬の陣(慶長19年11月、1614)最大の激戦地跡である。冬の陣の主戦場は鴫野・今福付近であったが、地形的には旧大和川の支流が分流して深田が多く、大規模戦闘には不向きであった。そこで双方は銃撃戦でのぞみ、合い間に堤防上で遭遇戦をくり返した。
城東区の区長コラムも、この戦いを「旧大和川の堤防上だけが戦場という珍しいもの」と伝わる形で紹介し、慶長19年11月25日に上杉景勝が鴫野に到着したこと、翌26日未明に佐竹義宣が1,500人の兵を率いて豊臣方の柵をことごとく占拠し、木村重成と後藤基次(又兵衛)が反撃したことを記す。今福・蒲生の戦いの碑は今福西1丁目にある。
地理院地図で、碑のある鴫野東三丁目あたりの標高を読むと0.6メートルだった。茶臼山26.2メートル、御勝山12.3メートル、鴫野0.6メートル。冬の陣の地図は、この高低差の上に置かれている。
惣構は「方2km」、そして和議で埋められた
では、豊臣方が守っていた堀はどこにあったのか。大阪市の『特別史跡大坂城跡保存活用計画』第3章が、豊臣期大坂城の普請を年ごとに整理している。
天正14~16 年(1586~1588)に二の丸普請、文禄3 年(1594)には惣構普請が行われ、その規模は方2km にも及んだ。慶長3~5 年(1598~1600)にも惣構内の普請が行われたが、慶長19 年(1614)の大坂冬の陣の和議によって惣構・外堀が埋められ、慶長20 年(1615)の大坂夏の陣で落城し、焼亡した。
惣構の普請は文禄3年(1594年)、規模は一辺2キロ四方に及んだ。そして冬の陣の和議で、その惣構と外堀が埋められた。
埋め立てを「戦術」と言い切っているのは、先の鴫野古戦場跡の解説のほうだ。
勝敗は一進一退で決せず、徳川家康は予想外の抵抗に手をやき、寒さが厳しくなる時期でもあったので和睦へもちこみ、大坂城外堀を埋め立てる戦術をとり、束の間の和平の後、夏の陣を迎え豊臣氏は滅亡するのである。
堀を埋めたのが誰で、どこまで埋めたのか——二の丸まで、三の丸まで、といった細かい線引きは、ここに引いた公的資料からは確かめられない。市の計画書から読み取れるのは「惣構・外堀が埋められた」までである。

埋められた堀は、地面の下から出てくる
埋め立ての現物は出ている。平成15年(2003年)、大阪府警本部の新築工事に伴う調査で、大手前から大規模な堀が姿を現した。大阪城天守閣のコラムが規模を記す。
見つかった堀の規模は幅約25m、深さ約6mあり、堀の傾斜は約40度以上ありました。
幅25メートル、深さ6メートル。堀底を凸凹に掘った「堀障子」も確認された。そして埋められ方が、時期を語っている。
堀は一気に埋め戻されていて冬の陣の後、夏の陣までに埋め戻しが行われたと考えられています
同コラムは、この堀を埋める途中で人を葬った墓が何体も見つかり、刀傷をおった人骨も多数出土したと続ける。半年のあいだに起きたことが、土の積み方と、その中に入っていたものの両方に残った。

この発見は、城の図面そのものも書き換えた。それまで谷町筋あたりまで広がると考えられていた三の丸の範囲が、大手口を囲む規模だったことになり、その外側は惣構堀まで明確な区画がなかったと想定されるようになった、とコラムは説明する。
地名に残った「空堀」
いま、惣構の堀の名を地上で拾えるのは、天王寺区の空堀町という町名だ。大阪市天王寺区が公開している町名の由来には、こうある。
当町域が東北東から西南西に斜行して存在する豊臣秀吉築造の外堀(南惣構え堀)を擁することに由来する。外堀は大阪冬の陣の講和後に埋め立てられ空堀となった。
外堀が町域を東北東から西南西に斜めに横切っていた、という向きまで書かれている。読み落としやすいのは順番のほうだ。区の資料は、埋め立てられた結果として空堀になった、と書く。空の堀だったから埋めた、ではない。
もっとも、同じ市の別の資料はもう少し慎重だ。大阪市都市整備局の「空堀地区HOPEゾーン事業」まちなみガイドラインは、この界隈の成り立ちをこう書き出す。
豊臣時代に大阪城郭の外堀が位置していたことから地名がつけられたと伝えられる空堀界隈は、
「伝えられる」である。同じガイドラインは、この一帯の高低差についても別の説明を与えている。西半分は御用瓦師だった豪商・寺島家の瓦の土取場となり、その後に町人町として発展した、と。そして「土の採取等によって生まれた高低差のある通り」という書き方をしている。つまり、いまこの界隈で足が感じる坂や段差は、堀の跡とは限らない。瓦のための土を掘った跡かもしれないし、両方かもしれない。

天王寺区が公開している町名図で空堀町を探すと、区の北の端、清水谷町の東にある。南へ空清町と玉造本町を挟んだ先が餌差町で、真田丸の推定地とされる一帯だ。国土地理院のジオコーダが返す町域の代表点どうしで測ると、空堀町と餌差町は約380メートル離れている。外堀の名を残す町と、その外に築かれた出丸の推定地が、直線400メートルほどの間に並んでいる。
秀忠本陣の痕跡も、豊臣期の城の配置も、まだ確定していない
秀忠の本陣について、大阪城天守閣のコラムは自分でこう締めている。
秀忠本陣の痕跡は明治19年の地図に反映されているはずですが、それを読み取ることは非常に難しいといえます。検討のためには秀忠本陣の遺構確認を目的とした発掘調査をさらに充実させることが必要だと思われます。
豊臣期の城の姿そのものも同じだ。「大坂城跡」が国の史跡に指定されたのは昭和28年(1953年)3月31日で、大阪市の計画書によれば特別史跡になったのは昭和30年(1955年)6月24日。その文化庁の解説文は、次の一文を含んでいる。
豊臣氏時代の大坂城は本丸、二の丸、三の丸、西の丸、山里丸等よりなり、城構の資料は諸書に見えるが、その正確な布置等は詳ざなり憾がある
国が指定した史跡の解説が、正確な配置は分からないと書いている。実際、2003年の大手前の堀ひとつで三の丸の範囲の想定は変わった。冬の陣の布陣図は、いまも書き換わっている途中の図面だということになる。
なお、大阪市建設局が「秀吉が大坂城の外堀として掘った」とする東横堀川は、江戸時代以降まったく別の理由で掘られ、埋められていく堀川の系譜に連なっていく。そちらは大阪の堀は、掘った土で街を上げ、空襲の瓦礫で埋め戻されたにまとめた。城の東を流れていた猫間川も、昭和に入って姿を消している。
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この記事の場所のそばにある痕跡
- 安居神社(真田幸村戦死跡碑)(茶臼山 から 戦の痕跡・約306m)
- 四天王寺(上町台地・聖徳太子建立と伝わる寺)(茶臼山 から 方位の痕跡・約481m)
- 天王寺七坂・口縄坂の伝承(茶臼山 から 噂の痕跡・約818m)
- 鳶田(飛田)刑場・墓所跡(茶臼山 から 死の痕跡・約939m)
茶臼山の周りには、天王寺区の痕跡が7件ある。
天王寺区の痕跡 7件をひらく →参考・出典
15件出典に基づいて掲載している
- 府内の史跡公園等の紹介【茶臼山古墳および河底池(天王寺公園)】/大阪府(おおさかふ)ホームページ [Osaka Prefectural G…
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