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歴史の痕跡

大阪の城跡はどこにあったか — 飯盛城・芥川城・千早城ほか、いま何が残っているのか

大阪府内の主な城跡は、四條畷市・大東市の飯盛城跡、高槻市の芥川城跡と高槻城跡、千早赤阪村の千早城跡、河内長野市の烏帽子形城跡、池田市の池田城跡、岸和田市の岸和田城などにある。山城の跡には平らに削った曲輪や堀切が残り、飯盛城跡と芥川城跡には石垣もある。平地の高槻城跡は、地上に堀も石垣も残っていない。

2026-09-28 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(9項目)

大阪府内の主な城跡を地図に置くと、山城の跡は府の北東、北、南東の山地に並ぶ。北東の飯盛山に飯盛城跡(四條畷市・大東市)、北の高槻市に芥川城跡と高槻城跡、南東の金剛山のふもとに千早城跡(千早赤阪村)、その西に烏帽子形城跡(河内長野市)がある。平地の城では、池田城跡(池田市)と岸和田城(岸和田市)がよく知られる。

山城の跡には、人の手で平らにした段や、尾根を断ち切った溝が残り、飯盛城跡と芥川城跡には石垣もある。一方、平地の高槻城跡には、地上に堀も石垣も残っていないと高槻市は説明している。同じ「城跡」でも、残り方は場所ごとに違う。

大阪府内の主な城跡はどこにあるのか

各市村の公式資料と文化庁のデータベースで確かめられた範囲を、一つの表にまとめた。所在地は、それぞれの資料に載っている町名である。

城跡所在地指定などいま見えるもの舞台になった出来事
飯盛城跡四條畷市・大東市(飯盛山の山頂)国史跡(2021年)曲輪・堀切・土橋・石垣1560年、三好長慶が芥川山城から拠点を移す
芥川城跡(芥川山城跡)高槻市大字原(三好山)国史跡(2022年)堀切・土塁・郭・大手の石垣1553〜1560年、三好長慶が在城
高槻城跡高槻市城内町・野見町・大手町ほか府史跡(1950年)地上には残らない1573年以降、高山右近の城
千早城跡千早赤阪村千早国史跡(1934年)段状の平坦地・千早神社元弘2〜3年(1332〜33)、楠木正成の籠城
烏帽子形城跡河内長野市喜多町国史跡(2012年)主廓・腰廓・空堀・土塁高野街道を取り込んだ山城
池田城跡池田市城山町—池田城跡公園池田勝正が荒木村重に城を追われる
岸和田城岸和田市岸城町府史跡(1943年)堀と石垣・1954年の天守1585年、小出秀政が城主となる
大阪府内の主な城跡の位置図。山城(飯盛城跡・芥川城跡・烏帽子形城跡・千早城跡)と平地の城(池田城跡・高槻城跡・岸和田城)を印の形で分け、大坂城と柴島城跡も添えた。
大阪府内の主な城跡の位置図。山城(飯盛城跡・芥川城跡・烏帽子形城跡・千早城跡)と平地の城(池田城跡・高槻城跡・岸和田城)を印の形で分け、大坂城と柴島城跡も添えた。

表の指定年は、飯盛城跡が大東市と四條畷市、芥川城跡が高槻市、千早城跡が文化庁の文化遺産オンライン、烏帽子形城跡が河内長野市、高槻城跡が高槻市、岸和田城が岸和田市の発表による。

飯盛城跡には何が残っているのか

飯盛山の稜線を北西側から見た遠景の挿絵(地形を簡略化)。手前に大阪平野が広がる。実際の眺めや標高を正確に写したものではない。
飯盛山の稜線を北西側から見た遠景の挿絵(地形を簡略化)。手前に大阪平野が広がる。実際の眺めや標高を正確に写したものではない。

四條畷市によると、飯盛城跡は飯盛山の山頂にあり、四條畷市と大東市にまたがる。規模は南北約700メートル、東西約400メートル。曲輪(くるわ:土を削ったり盛ったりして平らにした区画)、堀切(ほりきり:尾根を断ち切った溝)、土橋が、よい状態で残っている。2021年(令和3年)10月11日に国の史跡に指定された。

山城の縄張りの構造を簡略化した模式図。尾根に段状に並ぶ平らな曲輪(くるわ)、尾根を断ち切った堀切(ほりきり)、曲輪の縁の土塁(どるい)の位置関係を示す。特定の城の実測図や復元図ではない。
山城の縄張りの構造を簡略化した模式図。尾根に段状に並ぶ平らな曲輪(くるわ)、尾根を断ち切った堀切(ほりきり)、曲輪の縁の土塁(どるい)の位置関係を示す。特定の城の実測図や復元図ではない。

目を引くのは石垣だ。多くの曲輪で、石をほぼ垂直に積んだ石垣が使われ、数段に重ねた所もある。四條畷市は、石垣を多く使った城として織田信長の安土城に先がけるものだと説明する。ただし、後の城のように石垣の上に直接建物を載せたのではなく、盛り土を押さえるため、あるいは城の威容を示すためだった可能性がある、とも書いている。

城の主として知られるのは三好長慶(みよし・ながよし)である。永禄3年(1560)11月、長慶は高槻の芥川山城から飯盛城へ拠点を移し、ここから大和・山城・河内・摂津・和泉の五つの国と四国の一帯を治めた。永禄7年(1564)に城中で42歳で亡くなり、その死は3年間伏せられ、遺体は御体塚郭(ごたいづかくるわ)に仮に埋められたといわれる。長慶は城下でキリスト教の布教を許し、73人の家臣が城中で洗礼を受けたとも四條畷市は記す。

大東市が指定の日に出した発表には、調査の専門委員会の会長の言葉が載っている。大阪府内の中世の山城の国史跡指定は、千早城跡・楠木城跡(上赤阪城跡)・赤阪城跡・烏帽子形城跡に次ぐもので、千早城跡などは昭和9年に南朝をたたえる目的で指定された。測量・分布・発掘の調査で確かめたうえでの指定は、飯盛城跡が最初になるという。

行き方について、大東市はJR学研都市線の野崎駅または四条畷駅から歩いて山頂へ向かうよう案内している。ハイキングコースの上りで、野崎駅から約90分、四条畷駅から約100分かかる。

芥川城と飯盛城は、どういう関係なのか

長慶が飯盛城へ移る前にいたのが、高槻市の芥川城である。高槻市は「芥川城跡(芥川山城跡)」と書き、所在地は高槻市大字原、通称城山と呼ばれる三好山にある。

高槻市によると、この城は永正13年(1516)までに管領の細川高国が築いたと考えられている。天文22年(1553)に三好長慶が城主となり、永禄3年(1560)までの約7年間ここにいた。つまり長慶は、約7年を芥川城で、最後の約4年を飯盛城で過ごしたことになる。高槻市は、芥川城が政庁の役目を持ち、畿内の政治の舞台が一時期、京都から芥川城へ移ったことを示す城だと説明している。国の史跡になったのは2022年(令和4年)11月10日の告示による。

長慶の後にもこの城は使われた。永禄11年(1568)、足利義昭と織田信長は三好氏の勢力を追って芥川山城に入った。義昭はこの城を家臣の和田惟政に任せ、惟政は翌年、平地の高槻城へ居城を移したと高槻市は記す。山の城から平地の城へ、という移り変わりが、同じ市の中で追える。

遺構としては、堀切や土塁、郭、大手の石垣が残る。主郭などの発掘では、建物の跡と、記録と合う火災の跡が見つかっている。

行き方は、JR高槻駅の北のりばから高槻市営バスに乗り「塚脇」で降り、徒歩約30分(坂道で、途中から舗装されていない)。駐車場はない。高槻市は、城跡が私有地であること、スズメバチが多く目撃されていることを注意として挙げている。

高槻城跡には何が残っているのか

高槻市によると、いまの高槻城跡には、地上に堀や石垣は残っていない。明治7年(1874)、京都と大阪を結ぶ鉄道(いまのJR京都線)の建設のために石垣が壊され、石材が使われた。

ただし地下には、石垣や堀、建物、井戸の跡が残っている。発掘では、柔らかい地盤に石垣を築くための梯子胴木(はしごどうぎ:石垣の下に敷いた木の枠)が見つかった。高山右近が城主だった時代の内堀の跡は、長さ約140メートル、幅約16メートル、深さ約4メートルで、堀の底を土手で仕切る「障子堀」だったことがわかっている。三の丸跡の教会があったと推定される場所の近くでは、キリシタンの墓地が発掘され、十字が墨で書かれた木の棺やロザリオが出土した。

城跡は、1950年(昭和25年)5月に府の史跡に指定されている。所在地は高槻市城内町・野見町・大手町などで、城内町のしろあと歴史館が高槻城の模型や絵図を展示している。高槻市の案内では、歴史館へは阪急高槻市駅から南へ徒歩約10分、JR高槻駅から南東へ徒歩約15分。

千早城跡は、なぜ国史跡なのか

文化庁の文化遺産オンラインによると、千早城跡は1934年(昭和9年)3月13日に国の史跡に指定された。所在地は千早赤阪村で、管理団体も千早赤阪村である。指定の解説文は、楠木正成が元弘2年に再び兵を挙げた際、本城である楠木城の詰城(つめのしろ:最後に立てこもるための城)として築き、翌年閏2月に楠木城が落ちると正成がここに拠って、少ない兵で大軍を防いだと記す。

千早赤阪村は、千早城が千早の集落を見下ろす位置にあると案内している。千早地区の駐在所のあたりから山頂へ長い石段が続き、登りきった平らな広場が「第4郭(四の丸)」と呼ばれる曲輪である。本丸の跡には千早神社が建つ。同じ村には、楠木城跡(上赤阪城跡、村内の桐山)と赤阪城跡(下赤阪城跡、村内の東阪)もあり、どちらも国の史跡である。

烏帽子形城跡と池田城跡は、どんな城だったのか

河内長野市によると、烏帽子形城跡は河内長野市喜多町の烏帽子形山、標高182メートルの頂上にある。2012年(平成24年)1月24日に国の史跡に指定された。発掘で主廓、腰廓、空堀、土塁が確かめられている。自然の地形をたくみに使い、高野街道を取り込む形で築かれていて、紀伊の北部と河内の南部を結ぶ道を押さえる城だったと考えられている。史跡の範囲には、文明12年(1480)の建立と考えられる烏帽子形八幡神社の本殿(重要文化財)がある境内も含まれる。

池田城跡は、池田市城山町の池田城跡公園になっている。池田市立図書館の案内によると、池田氏は南北朝の建武の頃から天正の頃まで約240年、池田城に住んだ在地の武士だった。城主の池田勝正は家来の荒木村重に城を追われ、村重が伊丹城に拠点を移したため、池田城は1574年ごろ廃城になった。同じ案内は、池田城を築いたのが池田教依(のりより)だという記述は伝承であって、事実は定かでないとも書く。公園は午前9時から午後7時まで(11月から3月は午後5時まで)開いていて、火曜日が休み(祝日の場合は翌平日)である。

岸和田城の天守は、いつの建物なのか

岸和田市によると、いまの天守は1954年(昭和29年)に建てられた3層3階のものである。もとの天守は文政10年(1827)に落雷で焼け、絵図などから本来は5層だったことがわかっている。明治維新の時期に櫓や門も壊されたため、江戸時代以前の構造物で残っているのは堀と石垣だけだという。城跡は1943年(昭和18年)に府の史跡になった。

城の起こりは、楠木正成の一族の和田高家が築いたと伝わる。岸和田市の説明では、天正13年(1585)に羽柴秀吉が叔父の小出秀政を城主にし、天守もこのとき築かれた。寛永17年(1640)からは岡部氏が13代にわたって治めた。天守の開場は午前9時から午後5時(入場は午後4時30分まで)。休場日は年末年始と展示替えの期間で、臨時の休場もあるため岸和田市の案内で確かめたい。

大阪市内に城跡はないのか

大阪市内には大坂城のほかにも、小さな城跡が伝わる。大阪市によると、東淀川区柴島二丁目には柴島(くにじま)城跡の碑があり、西国から京都への要所として細川晴賢・三好政長らが拠った城だった。廃城の時期はわかっていない。付近には「本丸」「城道」という字名があり、周りより1〜2メートル高い周囲200メートルほどの土地が城跡とみられている。阪急の柴島駅から東へ約200メートル。場所は柴島城跡のスポットにまとめている。

大坂城をめぐる戦いの跡は、大坂の陣の痕跡や鴫野古戦場跡で追える。

城跡を自分で調べるには

城跡の場所と指定の有無は、文化庁の文化遺産オンラインや国指定文化財等データベースで、名前か所在地から引ける。解説文には、指定の年月日と管理団体が載っている。

もっと細かく知りたいときは、城のある市の文化財の担当ページに当たるのが早い。四條畷市は飯盛城跡のガイドマップや石垣ガイド、保存活用計画を公開している。池田市立図書館は、池田氏と池田城について、市史や資料館の図録、大阪府教育委員会の『摂津における中世城館の調査』(2022年)など、読める文献を並べている。

山城の跡を地図で探すなら、等高線の詰まった山の頂上付近に、平らな段が連なる場所を見る。その段が、曲輪と呼ばれるものである。

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