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歴史の痕跡

旧生駒トンネル|何があったのか、工事中の落盤事故と今の姿

旧生駒トンネルは1914年に開通した近鉄奈良線の前身のトンネルで、工事中の1913年1月26日の落盤事故では約150人が生き埋めになり、近鉄は19人が犠牲になったと記す。1964年に新しいトンネルへ切り替わって列車は通らなくなり、東側の入口付近だけがけいはんな線に使われている。大阪側の入口は扉で閉じられ、入れない。

2026-11-07 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(8項目)

旧生駒トンネルは、大阪府東大阪市と奈良県生駒市の境にある生駒山を東西に抜ける、長さ3,388メートルの鉄道トンネルだ。近畿日本鉄道(近鉄)の前身の大阪電気軌道が1914年(大正3年)に開通させ、1964年(昭和39年)まで近鉄奈良線の電車が通った。

このトンネルで何があったのか。開通の前年、1913年(大正2年)1月26日には工事中の落盤事故が起き、近鉄は約150人が生き埋めになり19人が犠牲になったと記している。戦後には奈良線で大きな追突事故もあった。いまは列車が通らず、大阪側の入口は扉で閉じられている。

生駒山を真っすぐ抜ける3,388メートル

明治の終わり、大阪と奈良を結ぶ鉄道はすでに2本あったが、どちらも生駒山を迂回していた。近鉄の社史のページによると、大阪電気軌道は調査を頼んだ鉄道工務所から三つの経路を示され、最も短く結べる長いトンネルの案を選んだ。理由は「競合線敷設の余地を残さないため」だったという。

産経新聞の記事(2017年)は、『近畿日本鉄道50年のあゆみ』を引いて、標高の低い所を迂回する案と、ケーブルカーに乗り換えて山を越える案もあったと書いている。

工事を請け負ったのは大林組だ。同社の社史によると、1911年(明治44年)6月に請け負い、東口は7月5日、西口は7月9日から、トンネルの先に細い坑道(導坑)を掘り始めた。西口は大阪側の日下、東口は奈良側の谷田にあたる。

長さは当時、山梨県の中央線の笹子トンネルに次ぐもので、笹子が線路1本で線路の幅も狭かった(単線狭軌)のに対し、こちらは線路2本で幅の広い線路(複線広軌)だった。近鉄は「複線標準軌のトンネルとしては当時日本最長」と記している。

掘るほどに地質は悪くなった。大林組の社史は、岩と粘土が混じった軟らかい部分が多く、地下水が湧き、電気の供給が足りずに停電もたびたび起きたと書く。ひどいときは1か月に30センチしか進まなかったという。同社は、約1,500人の坑内員が三交代で働いたとも紹介している。

工事当時のイメージ
工事当時のイメージ

1913年1月26日の落盤事故

事故が起きたのは、工事が始まって1年半ほどたった1913年(大正2年)1月26日だった。大林組の社史によると、午後3時20分、東口から約700メートルの地点で、長さ18メートルにわたる陥没が起きた。作業中の152人が生き埋めになり、一昼夜の救助で大部分は助け出されたが、監督1人と作業員19人が亡くなった。

亡くなった人の数は、資料によって書き方が違う。近鉄は「約150人が生埋めになる事故が発生し、19人が犠牲となった」とし、大林組は監督1人と作業員19人を分けて書く。

在日本大韓民国民団の記事は「153人が閉じ込められ」「19人が亡くなった」、奈良韓国教育院は「150名ほど」が閉じ込められ「約20名」が犠牲になったとする。同じ事故を、誰を数えに入れるかで別の数字にしている可能性があり、どれか一つが誤りとは言えない。

旧生駒トンネルの落盤事故について、資料ごとの数字を並べた表。近鉄は約150人が生き埋め・19人が犠牲、大林組は152人が生き埋め・監督1人と作業員19人、民団の記事は153人・19人、奈良韓国教育院は150名ほど・約20名。
旧生駒トンネルの落盤事故について、資料ごとの数字を並べた表。近鉄は約150人が生き埋め・19人が犠牲、大林組は152人が生き埋め・監督1人と作業員19人、民団の記事は153人・19人、奈良韓国教育院は150名ほど・約20名。

導坑は1914年(大正3年)1月31日に貫通し、4月に工事が終わった。産経新聞の記事によると、4月30日に奈良と上本町の間の30.6キロが開業した。近鉄の記録では、工事の期間は2年10か月、トンネルの建設費は269万円だった。

会社の資本金は300万円で、大林組の社史は、事故と工事の遅れで世間に「大軌危うし」の声が上がったと書いている。

1911年の請け負いから1914年の開業までを縦に並べた年表。1911年7月に東口と西口から導坑を掘り始め、1913年1月26日に東口から約700メートルで落盤、1914年1月31日に導坑が貫通、同年4月30日に奈良と上本町の間が開業した。
1911年の請け負いから1914年の開業までを縦に並べた年表。1911年7月に東口と西口から導坑を掘り始め、1913年1月26日に東口から約700メートルで落盤、1914年1月31日に導坑が貫通、同年4月30日に奈良と上本町の間が開業した。

宝徳寺の慰霊碑と、朝鮮半島から来た人たち

工事には、朝鮮半島から来た人たちも加わっていた。奈良韓国教育院のページは、当時約200人を超える労働者が朝鮮から工事に従事していたとし、当時の新聞報道や地元の寺社に残る過去帳に、落盤の犠牲者のうち4人の朝鮮人労働者と思われる名前が記されているとしている。

生駒市本町の宝徳寺には、1977年に建てられた「韓国人犠牲者無縁佛慰霊碑」がある。民団の記事によると、事故から106年目の2019年1月26日、この碑の前で追善の法要が営まれ、関西各地から40人が献花した。碑の下部には石仏が2体あり、当時の坑夫たちが作ったと伝えられている。

調べていて目に留まったのは、2019年の追善が、事故と同じ1月26日に営まれていたことだ。碑は寺の境内にある。

開通のあとの列車事故

開通後には、奈良線で大きな事故も起きている。近鉄の社史のページは、戦後の車両の整備が追いつかず運転事故が続いたとし、1948年(昭和23年)3月に河内花園駅の構内で起きた列車の追突事故で、49人が犠牲になったと記す。近鉄はこれを受けて事故防止対策委員会を設け、戦後の安全対策の基礎になったとしている。

東洋経済オンラインの記事(2026年)も、トンネルの中での車両火災や、ブレーキの故障による暴走と追突の事故が重なり、多くの犠牲者が出たと書く。ただ、戦後のトンネル内の火災の日付と人数を、近鉄や公的な機関の資料で確かめることはできなかった。

「生駒トンネルの火災」として出てくる1987年(昭和62年)9月21日の火災は、旧トンネルとは別の、前の年に開通したけいはんな線(当時の東大阪線)の生駒トンネル(4,737メートル)で起きた。大阪府警の元鑑識係の著書の抜粋(JBpress)によると、大阪側から1,949メートルの地点で火が出て、1人が亡くなり、50人以上がけがをした。

1964年の廃止と、3本目のトンネル

旧トンネルは幅が狭く、大きくなった電車を通せなかった。近鉄は、奈良線に大型の車両を走らせるため、新しい生駒トンネルを掘ったと記す。

奈良県立図書情報館の資料によると、新しいトンネルは1964年(昭和39年)7月に開通し、旧トンネルは鉄道のトンネルとしての役目を終えた。近鉄グループの発表は、新しいトンネルが旧トンネルの南側に並んで開通したと書いている。

新旧の鉄道風景のイメージ
新旧の鉄道風景のイメージ

1986年(昭和61年)10月には、長田と生駒を結ぶ東大阪線(いまのけいはんな線)が開業した。同館の資料は、このとき生駒側の出口に旧トンネルを広げて使ったとし、アド近鉄も、東側の入口付近がけいはんな線の生駒トンネルの一部になっていると書く。旧トンネルの大部分は、半世紀あまり使われないまま残った。

生駒山の下を通る3本のトンネルの位置関係を示した略図。西の大阪側に孔舎衛坂駅跡と旧トンネルの入口、石切駅、新石切駅、東の奈良側に生駒駅と宝徳寺。旧生駒トンネル(1914〜1964年)、その南に並ぶ奈良線の生駒トンネル(1964年〜)、新石切駅から生駒駅へ向かうけいはんな線の生駒トンネル(1986年〜)を描き、けいはんな線は生駒側の出口付近で旧トンネルを使う。
生駒山の下を通る3本のトンネルの位置関係を示した略図。西の大阪側に孔舎衛坂駅跡と旧トンネルの入口、石切駅、新石切駅、東の奈良側に生駒駅と宝徳寺。旧生駒トンネル(1914〜1964年)、その南に並ぶ奈良線の生駒トンネル(1964年〜)、新石切駅から生駒駅へ向かうけいはんな線の生駒トンネル(1986年〜)を描き、けいはんな線は生駒側の出口付近で旧トンネルを使う。

石切駅から歩いて数分の入口

大阪側の入口は、近鉄石切駅から歩いて数分の、住宅地を抜けた山すそにある。入口の手前、左右に残る石垣は、1964年に廃止された孔舎衛坂(くさえざか)駅のホームの跡だ。

東大阪観光協会の地図によると、この駅は開業のときは日下駅、のちに鷲尾駅と呼ばれ、1940年(昭和15年)に神武天皇の伝説にちなんで孔舎衛坂駅と名を改めた。

ここから中へは入れない。アド近鉄によると、ホームの跡が残る一帯には動いている電力の設備もあるため、関係者以外の立ち入りは禁止されている。入口の扉はふだん鍵がかかり、内側にもう一つ門がある。東大阪観光協会も、私有地のため通常は駅の跡にもトンネルにも入れないとしている。

入口の前は人が暮らす住宅地なので、外から見るときも夜に騒がず、通りをふさがないようにしたい。

トンネル自体は、いまも使われている。東洋経済オンラインの記事によると、旧トンネルは隣の現役のトンネルの避難経路になっている。

2023年3月には、アド近鉄と近鉄が、入口から約500メートル奥の横穴(約260平方メートル)を酒やワインの熟成の場に貸し出すと発表し、柏原市のワイナリーと生駒市の酒蔵との協議を挙げた。発表によると、中の気温は年間平均で約16.7度、湿度は約98%だ。

中に入れる機会としては、近鉄が日を決めて見学ツアーを組んだことがある。近鉄の案内によると、2026年は7月25日と8月8日に「旧生駒トンネル探検ツアー」が組まれた。

近鉄グループの発表によると、壁は長い面の段と短い面の段を交互に積む「イギリス積み」の煉瓦で、トンネルは2009年に経済産業省の近代化産業遺産に選ばれた。同じ積み方の煉瓦のトンネルは、神戸の会下山の下を通る、湊川の煉瓦の河川トンネルにも残る。

怖い場所として語られる話について

このトンネルを怖い場所として語る話は、インターネットの投稿や動画にいくつもある。新聞社や自治体の資料に、そうした話を取り上げたものは見つからなかった。

資料で確かめられるのは、工事中の落盤で亡くなった人がいたこと、戦後に奈良線で大きな事故があったこと、そして宝徳寺に犠牲者の碑があり、2019年にもその前で追善が営まれたことだ。

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参考・出典

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