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歴史の痕跡

大坂の陣の痕跡を歩く — 真田丸・抜け穴・茶臼山はいまどこに

2026-07-08 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部

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大坂の陣の痕跡を歩く — 真田丸・抜け穴・茶臼山はいまどこに まんが解説 1ページ目大坂の陣の痕跡を歩く — 真田丸・抜け穴・茶臼山はいまどこに まんが解説 2ページ目大坂の陣の痕跡を歩く — 真田丸・抜け穴・茶臼山はいまどこに まんが解説 3ページ目大坂の陣の痕跡を歩く — 真田丸・抜け穴・茶臼山はいまどこに まんが解説 4ページ目大坂の陣の痕跡を歩く — 真田丸・抜け穴・茶臼山はいまどこに まんが解説 5ページ目大坂の陣の痕跡を歩く — 真田丸・抜け穴・茶臼山はいまどこに まんが解説 6ページ目

まんがの内容は下の本文(出典つき)をもとに構成しています。

大坂の陣の跡は、大阪城の中だけにあるのではない。冬の陣(1614年)と夏の陣(1615年)の主な舞台は、いまの大阪市天王寺区とその周辺にあたり、真田丸の推定地、三光神社の「真田の抜け穴」、そして家康と幸村の両方が本陣を置いた茶臼山まで、半日あれば歩いて回れる。それぞれ何が残っていて、どう歩けばいいのか。資料で確認できた範囲でまとめた。

真田丸はどこにあったのか — 明星学園周辺が有力

大坂冬の陣で真田信繁(幸村)が大坂城の南東に築いた出丸「真田丸」。ドラマや小説でおなじみの名前だが、その正確な場所は長らく諸説ある状態だった。

現在有力なのは、天王寺区餌差町にある大阪明星学園の周辺だ。天王寺区役所の発表によると、区は2016年2月、学園のテニスコート東側(餌差町5-44)に「真田丸顕彰碑」を設置した。同じ年に行われた大阪文化財研究所のレーダー探査と発掘調査では、堀の跡とみられる地下の落ち込みが確認されており、専門家のコラムでもこの一帯が推定地として紹介されている。それでも出丸の正確な範囲や規模については研究者の間で議論が続いていて、「ここからここまでが真田丸」と線を引ける段階ではない。

顕彰碑の周辺は学校と住宅の街だ。見学は道路から碑を眺める形になるので、授業時間帯の騒がしい振る舞いは避けたい。地形に注目すると、このあたりが大坂城の南側の台地の縁にあたることが体感でき、なぜここに出丸を置いたのかが少し想像しやすくなる。詳しい資料と地図は真田丸出丸跡のスポットページにまとめている。

三光神社の「真田の抜け穴」— 伝承と塹壕説

真田丸推定地から東へ数分歩くと、三光神社(玉造本町)に着く。境内には「真田の抜け穴」と呼ばれる穴が口を開けていて、大坂城まで通じていたという伝承で知られる。神社の公式ページでも真田丸ゆかりの地として紹介されており、幸村の銅像も立っている。

ただし、この穴の由来には別の説がある。日本経済新聞の記事や城郭考古学者の研究では、実際には徳川方が掘った塹壕(攻め寄せるための壕)の跡ではないかとする見方が示されている。江戸時代の記録にも、徳川方の壕が庶民の間で「真田の抜け道」として伝わっているという趣旨の記述があるとされ、伝承と史実が入り混じったまま現代まで語り継がれてきた場所だといえる。どちらの説を取るにしても、大坂の陣の攻防がこの地点で行われたことの生々しい痕跡であることに変わりはない。両論の出典は三光神社のスポットページに載せている。

茶臼山 — 家康と幸村、両方の本陣になった丘

明治期の測量地形図に描かれた茶臼山・天王寺周辺。市街の南端で、まだ田畑と寺町が入り混じっていた頃の姿。出典: 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷謙二)より作成
明治期の測量地形図に描かれた茶臼山・天王寺周辺。市街の南端で、まだ田畑と寺町が入り混じっていた頃の姿。出典: 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷謙二)より作成

天王寺公園の一角に、標高26メートルの小さな丘がある。茶臼山だ。大阪府の文化財紹介ページによると、ここは冬の陣で徳川家康が本陣を置いた場所で、昭和61年の発掘調査では本陣跡とみられる建物や堀割も確認されている。そして半年後の夏の陣では、今度は真田幸村がこの丘に本陣を構え、「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」と呼ばれる最終決戦の舞台になった。

調べていて一番印象に残ったのはこの点だった。冬に攻める側の総大将が立った丘に、夏には守る側の武将が立つ。半年で攻守の位置関係がひっくり返ったことが、ひとつの丘の来歴にそのまま刻まれている。

丘そのものの成り立ちには諸説ある。かつては前方後円墳と考えられ、隣の河底池は周濠の跡とみられていたが、大阪市の資料によると埴輪の破片が見つかっていないことなどから古墳説には疑問も出ている。一方で、盛土の工法が古墳築造のものと似ているという調査結果もあり、可能性は残されたままだ。河底池については、延暦7年(788年)に和気清麻呂が上町台地を横断する堀川を掘った際の名残とする説も伝わる。丘は「茶臼山古墳および河底池」として昭和47年に大阪府指定史跡となっており、天王寺公園の整備エリアから自由に登れる。詳細は茶臼山のスポットページへ。

現地で確かめたこと(2026年7月30日 追記)

実際にこのエリアを歩いてきたので、短いメモを足しておく。

安居神社の御朱印。「眞田幸村公戦死の地」の印が入る
安居神社の御朱印。「眞田幸村公戦死の地」の印が入る

歩くコースと心づもり

3か所は南北およそ2.5キロの範囲に収まっている。大阪メトロ玉造駅から三光神社、真田丸顕彰碑、旧真田山陸軍墓地の外周を経て、南へ下って四天王寺、茶臼山、天王寺駅というルートなら、途中の坂も含めてゆっくり歩いて2〜3時間ほどだ。

心づもりとしてひとつだけ。このエリアの「戦の痕跡」は、江戸時代の合戦跡だけでなく、明治以降の戦争の慰霊の場や、空襲の記録とも地続きだ。跡地の多くはいま学校や住宅、公園として使われていて、そこで暮らす人の日常がある。史跡めぐりというより「街の来歴を確かめに行く」くらいの気持ちで歩くのが、この土地への礼儀に合っていると思う。

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参考・出典

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