鳶田(飛田)刑場・墓所跡|何があった場所か

千日前と並ぶ大坂の刑場・墓所の一つがあったとされる地(現・西成区太子一丁目付近)。「跡地一帯に飛田遊郭が形成された」という通説には、郷土史の古地図考証で別の町域(1916年に遊廓の指定を受け、1918年12月に開廓式が行われた山王3丁目)とする異説がある。
時のながれ
- 江戸期 — 摂州西成郡今宮村鳶田(現・西成区太子一丁目付近)に大坂七墓の一つ「鳶田(飛田)墓地」と、磔・火罪等を執行する刑場が設置されていた。文化3年(1806)の古地図にも「鳶田墓」「刑場」の記載あり。
- 明治 — 明治期に、江戸時代の刑場の墓・火葬場は郊外の阿倍野墓地に集約されたと郷土史の考証は記す。1903年頃の地図では当地は更地化。
- 1916年(大正5年) — 難波新地乙部遊廓の焼失(1912年)後の代替地として、天王寺村字堺田(現・西成区山王3丁目)に飛田遊廓が指定される(開廓式は1918年〈大正7年〉12月)。これは鳶田墓地跡地(太子1丁目)とは別の町域とする郷土史考証がある。
現地の写真


近くの痕跡
- 茶臼山(大坂の陣 両軍本陣跡・天王寺公園)(戦の痕跡・約939m)
- 安居神社(真田幸村戦死跡碑)(戦の痕跡・約1.1km)
- 十三間堀川跡(阪神高速堺線下・浪速神社西側)(水の痕跡・約1.4km)
- 四天王寺(上町台地・聖徳太子建立と伝わる寺)(方位の痕跡・約1.4km)
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 刑場が実在したことは、国立国会図書館のレファレンスと、郷土史の古地図考証で確認した。
そのため、このページではこうしています
- ピンは西成区太子一丁目の代表点付近である。
現地確認: 実施済み
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
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参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 江戸時代に大坂にあった刑場の名称と場所を知りたい。(レファレンス協同データベース)
国立国会図書館 レファレンス協同データベース / 大阪市立中央図書館 - 飛田遊廓 - Wikipedia
Wikipedia(補助資料、鳶田刑場説の記載なしを確認) - 飛田墓をたずねて
個人郷土史ブログ(古地図考証、文化3年「増脩改正摂州大阪地図」等を典拠に提示)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :説明文の1文と時のながれの4項目を、出典の書き方に合わせて改めた。主な変更は、古地図の年を「1803年」から「文化3年(1806)」に直したこと、1916年を飛田遊廓の開業ではなく指定の年とし、開廓式を1918年12月と添えたこと、代替地の由来から出典に無い曽根崎新地を外して難波新地乙部遊廓の焼失(1912年)としたこと、明治の墓地の移転の項から出典で確かめられない「1874年」と「長柄」を外したことだ。
この場所について
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