猫間川跡(玉造稲荷神社の猫間川川浚碑)|何があった場所か
阿倍野区高松付近から大阪市東部を北へ流れ、森之宮で平野川に合流していたとされる猫間川の跡。昭和初期から順次埋め立てられて姿を消したが、玉造稲荷神社には天保期の川浚えを記念する石碑が今も残るとされる。

近くの痕跡
- 「玉造」地名(玉作部の居住地伝承)(地の痕跡・約6m)
- 三光神社「真田の抜け穴」(戦の痕跡・約428m)
- 城東練兵場跡(森之宮)(戦の痕跡・約543m)
- 真田丸出丸跡(天王寺区餌差町周辺)(戦の痕跡・約574m)
時のながれ
- 慶長20年(1615)頃 — 大坂の陣の記録に猫間川が登場し、兵糧を搬入したことが記されている。
- 天保9年(1838)頃 — 川底が浅くなり舟運に支障が出たため、町人の資金協力による川浚え(浚渫)が行われ、記念碑が玉造稲荷神社に奉納されたとされる(浚渫の年は資料により天保8年とも。碑の建立は神社公式で天保10年〈1839年〉)。
- 昭和初年頃〜 — 順次埋め立てられ、下水道・公園・道路などに変わっていったとされる。
- 昭和32〜33年(1957〜58)頃 — 暗渠化・埋立が完了し、川としての姿は消滅したとされる(完了年は資料により差がある)。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 流路(阿倍野区高松から生野区、東成区・城東区を経て森之宮で平野川に合流)、長さ約4.5km、川幅約10mという数値は、各資料でおおむね一致している。
そのため、このページではこうしています
- 消滅の時期は、暗渠化(1957年とする資料)と埋立の完了(昭和33年=1958年とする資料)という別の工程を指している可能性がある。
- 碑については、城東区のページが「天保8年(1837年)の浚渫記念碑」とし、神社の公式は「天保9年の浚渫工事・天保10年(1839年)建立」と記す。浚渫の年が資料により一年ずれており、現地の銘文での確認が残る。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 名の由来を「百済川(平野川)に対する高麗川が訛ったもの」とする説が複数の資料に共通するが、諸説あり確定していない。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
⛩ この土地の福跡
同じ土地の、受け継がれてきた側の顔だ。
- 玉造稲荷神社(玉造清水・利休井)川浚えの碑が残る、その境内。
参考・出典
5件出典に基づいて掲載している
- 猫間川(城東区を流れる川)
大阪市城東区役所 - 猫間川はいつ埋め立てられたのか。
レファレンス協同データベース(国立国会図書館・大阪市立中央図書館) - 境内石碑(猫間川川浚碑)
玉造稲荷神社 - 猫間川 - Wikipedia
Wikipedia - 59.玉造稲荷神社(歴史の散歩道)
大阪市建設局
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :時のながれの2項目と編集部の調査メモの1文、参考・出典の表題を改めた。主な変更は、「碑の年代は資料により天保8年とも」を、天保8年は浚渫の年で、碑の建立は神社公式によれば天保10年(1839年)だと分けたこと、「大坂城東側の守りや兵糧の搬入に関わったと伝わる」を、城東区の公式ページの記述どおり「兵糧を搬入したことが記されている」としたことだ。調査メモの「別の出来事にあたるため矛盾ではない」も、浚渫の年が資料により一年ずれている、と改めた。
この場所について
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