三光神社「真田の抜け穴」|何があった場所か
境内に「真田の抜け穴」と伝わる穴が残る。神社は、大坂城から真田丸へ通じる地下の暗道を真田信繁(幸村)が作ったとの伝承を紹介している。各地に残る同種の穴には徳川方の塹壕や動物の穴とする見方もあるが、三光神社に現存する穴の年代と用途は確定していない。

近くの痕跡
- 真田丸出丸跡(天王寺区餌差町周辺)(戦の痕跡・約322m)
- 旧真田山陸軍墓地(戦の痕跡・約323m)
- 「玉造」地名(玉作部の居住地伝承)(地の痕跡・約423m)
- 猫間川跡(玉造稲荷神社の猫間川川浚碑)(水の痕跡・約428m)
時のながれ
- 慶長19年(1614)・伝承 — 大坂冬の陣で真田信繁が真田丸を築いた。三光神社は、大坂城から真田丸へ通じる地下の暗道を信繁が作ったとの伝承を紹介している。
- 江戸期(1769年) — 日本経済新聞は、『元和先鋒録』に、徳川方の塹壕が庶民の間で「真田の抜け道」と誤って伝わっている旨の記述があると紹介する。
- 明治(1903年) — 日本経済新聞は、『大阪府誌』に「真田の抜け道と称するは誤りなり」とあると紹介する。これらの記述だけでは、三光神社に現存する穴の年代・用途は確定しない。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 三光神社の公式ページは、大坂城から真田丸へ通じる地下の暗道を真田信繁が作ったと言い伝えられていると紹介する。
- 日本経済新聞は、現宮司の父(故人)が文献調査を行ったが、幸村がこの穴を掘り通ったという事実は見つけられなかったと伝える。あわせて、各地に残る同種の穴一般には、徳川方の塹壕やキツネなど動物が掘った穴とする見方があると紹介する。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 三光神社に現存する穴の年代と用途は確定していない。各地の穴に関する一般論だけで、この穴を徳川方の攻撃壕と特定することはできない。
- 『元和先鋒録』『大阪府誌』の記述は、日本経済新聞の紹介によるもので、原典では確かめていない。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
このスポットが登場するテーマ
- 大坂の陣を歩く — 真田丸から幸村終焉の地まで③ 伝・真田の抜け穴(伝承)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 大阪「真田の抜け穴」は庶民の誤解? 徳川方の塹壕説も
日本経済新聞 - 三光神社<公式ホームページ> 真田丸ページ
三光神社(公式) - 三光神社 - Wikipedia
Wikipedia(脚注に千田嘉博『真田信繁「勝利」への条件』2015年)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :説明文と編集部の調査メモの「攻撃壕」を、日本経済新聞の記事の語どおり「塹壕」に改めた。調査メモの「幸村が掘り通した事実は文献調査で確認できなかった」も、文献を調べたのは日経ではなく宮司の父(故人)だと記事が伝えているため、そのとおりに書き直した。
- :時のながれの2項目の末尾にあった、原典を確かめていないという断りを外した。『元和先鋒録』『大阪府誌』の記述が日本経済新聞の紹介によるもので、原典では確かめていないことは、まだ分かっていないことへ移した。
この場所について
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