三光神社「真田の抜け穴」|何があった場所か
境内に「真田の抜け穴」と伝わる穴が残る。大坂城まで通じていたという伝承だが、実際には徳川方の塹壕跡とする説もある。
時のながれ
- 江戸期 — 大坂冬の陣(1614年)で真田信繁が真田丸を築いたとされ、その際に大坂城まで通じる抜け穴を掘ったという伝承が生まれた(一方、実際は徳川方が掘った塹壕とする説が有力)。
- 江戸期(1769年) — 元和先鋒録に、徳川方の塹壕が庶民の間で「真田の抜け道」と誤って伝わっているとの記述があるとされる(原典未直接確認)。
- 明治(1903年) — 大阪府誌に「真田の抜け道と称するは誤りなり」との記述があるとされる(同上、原典未直接確認)。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 報道、三光神社の公式、城郭研究者の著作を典拠とする記述で、両論が併記されていることを確認した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 抜け穴の由来そのものには複数の説が併存し、史実として確定していない。
参考・出典
- 大阪「真田の抜け穴」は庶民の誤解? 徳川方の塹壕説も
日本経済新聞 - 三光神社<公式ホームページ> 真田丸ページ
三光神社(公式) - 三光神社 - Wikipedia
Wikipedia(脚注に千田嘉博『真田信繁「勝利」への条件』2015年)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
このスポットが登場するテーマ
- 大坂の陣を歩く — 真田丸から幸村終焉の地まで③ 伝・真田の抜け穴(伝承)
この痕跡を掘り下げた記事
近くの痕跡
- 真田丸出丸跡(天王寺区餌差町周辺)(戦の痕跡・約322m)
- 旧真田山陸軍墓地(戦の痕跡・約323m)
- 「玉造」地名(玉作部の居住地伝承)(地の痕跡・約423m)
- 猫間川跡(玉造稲荷神社の猫間川川浚碑)(水の痕跡・約428m)