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大坂の陣を歩く — 真田丸から幸村終焉の地まで

大坂の陣の跡は、大阪の市街地に点々と残っている。ばらばらに訪ねると、ただの石碑めぐりで終わる。だが順番に結ぶと、一本の線になる。

この順路は、上町台地を北の端から南の端へ下る。慶長19年(1614年)の冬の陣で守り切った男が、堀を埋められ、翌年の夏、同じ台地の南の端で果てるまで。地図の上の線の向きが、そのまま出来事の順になっている。

番号は歩く順番。線は地点を順に結んだもので、実際の道すじではない。

順路

  1. 鴫野古戦場跡(大坂冬の陣・鴫野の戦い)次まで 約2.8km冬の陣・鴫野の戦い(1614)
  2. 真田丸出丸跡(天王寺区餌差町周辺)次まで 約320m冬の陣・真田丸の戦い(1614)
  3. 三光神社「真田の抜け穴」次まで 約3.0km伝・真田の抜け穴(伝承)
  4. 茶臼山(大坂の陣 両軍本陣跡・天王寺公園)次まで 約310m冬=家康本陣/夏=幸村本陣
  5. 安居神社(真田幸村戦死跡碑)夏の陣・幸村終焉の地と伝わる(1615)

台地の北の端から

慶長19年(1614年)11月26日の未明、旧大和川の堤防の上で戦いが始まった。徳川方の佐竹義宣・上杉景勝ら約6,500の軍勢が、堤を守る大坂方を攻めたと伝わる。鴫野・今福の戦いである。

一帯は旧大和川の支流が分かれて流れる深田の湿地で、軍勢が動けるのは堤防の上だけだった、と大阪市城東区の公式ページは記す。銃撃戦と堤の上での遭遇戦が、11月29日ごろまで一進一退で続いた。大坂方では木村重成がこの戦いで初陣し、後藤基次(又兵衛)とともに戦ったと伝わる。

いまは城東小学校の校庭の東側に古戦場碑が立つ。道路に面していて、敷地の外から見える。大坂冬の陣400年の記念碑も並んでいる。

南に、出丸がひとつ

鴫野から南西へ約2.8km。低地を抜けて上町台地に上がると、真田丸の推定地に着く。

大坂城は北と西と東を川と低地に守られていた。ただ南だけは台地が地続きで、そのまま攻め寄せることができる。真田信繁(幸村)がその南に築いた出丸が真田丸だった。冬の陣で徳川方はここで大きな損害を出したとされる。

出丸の正確な範囲と規模は、いまも研究者の間で説が分かれている。2016年、大阪文化財研究所のレーダー探査で、大阪明星学園の敷地の地下に落ち込みが確認された。明治期の地図に写る帯状の地割と重なることから、真田丸の南側の堀の縁とみられている。同じ年の2月、天王寺区は明星学園と協定を結び、テニスコートの東側に真田丸顕彰碑を設置した。

穴の話

真田丸跡から東へ約320m、三光神社の境内に「真田の抜け穴」と呼ばれる穴が残る。大坂城まで通じていたという伝承がついている。

ただしこの伝承には、古くから反論がある。徳川方が城へ向けて掘り進めた坑道の跡だという説で、明和6年(1769年)の『元和先鋒録』や明治36年(1903年)の『大阪府誌』に「真田の抜け道と称するは誤りなり」といった記述があるとされる(原典そのものは当編集部では未確認)。城郭研究者・千田嘉博氏の著作を典拠として、日本経済新聞も両方の説を並べて報じた。

由来は確定していない。穴そのものは、いまも境内にある。

堀が埋められた冬

冬の陣は和議で終わった。そしてその和議のあと、真田丸は徳川方によって完全に破壊され、堀も埋められた。大阪城天守閣の豊臣石垣コラムがそう記している。

守るための地形が消えた。翌年の夏、大坂方は城に籠って戦うことができず、城の外へ出て野戦を挑むことになる。ここから先の2地点は、その夏の話になる。

ここまでの3地点を歩くと、地形の差が体でわかる。鴫野は低い湿地で、堤防の上だけが乾いていた。真田丸跡と三光神社は台地の上にある。②へ向かう途中で一度はっきり坂を上るが、冬の陣で戦い方がまるで違ったのは、この上りぶんの差でもある。

同じ丘に、二度

真田丸跡から南西へ約3km、天王寺公園の中に標高26mの小さな丘がある。茶臼山である。

大坂冬の陣で徳川家康が本陣を置いたのは、この茶臼山古墳だ。家康は住吉から本陣をここへ移している。昭和61年(1986年)の発掘調査では、本陣跡とみられる建物跡と堀割が確認された、と大阪府の公式ページが記す。

そして翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、同じ丘に真田信繁ら約3,500が布陣した。冬に家康がいた場所へ、夏は幸村が入ったことになる。茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)である。

なお、この丘そのものの成り立ちは確定していない。前方後円墳とする見方は円筒埴輪が見つかっていないことから疑問視される一方、盛土の工法が古墳に似ているとして可能性を残す見解もある。昭和47年(1972年)に「茶臼山古墳および河底池」として大阪府の史跡に指定された。

台地の南の端で

茶臼山から北西へ約300m、坂を下りたところに安居神社がある。菅原道真ゆかりの古社で、境内に真田幸村戦死跡碑が立つ。

大阪市建設局の「歴史の散歩道」は、この場所についてこう記す。「茶臼山に布陣した幸村は、徳川家康の本陣を急襲、窮地に陥れたが戦い利あらずついにここで戦死したという。」

文末は「という」である。市の公式の説明でも、最期の経緯は伝承を含む形で書かれている。幸村の死については他にも説があり、この地に限って断定できる状態にはない。境内の「さなだ松」も、当時の木ではなく代替わりしたものだ。

残り方が、ちがう

5地点を続けて回ると、痕跡の残り方が一つずつ違うことに気づく。

鴫野に残るのは碑だけで、湿地も堤防もない。真田丸は地上に何もなく、堀の跡が学校の地下に眠っている。三光神社は穴そのものが現物として残るが、その由来には説が二つある。茶臼山は丘がまるごと残っていて、そこに上れる。安居神社は碑と社が残り、伝えられてきた話も残っている。

地形が残る場所、地下にだけ残る場所、物が残る場所、話が残る場所。同じ2年間の出来事でも、400年のあいだに残るものは同じにならなかった。

線の向き

真田丸跡から安居神社まで、南北の差は約2.2km。この順路は、上町台地を北から南へ下る向きになっている。冬に台地の北で守り切った男が、その堀を埋められ、翌年、同じ台地の南の端で果てた。5点を結んだ線の向きが、そのまま出来事の順に重なる。

落城した大坂城は、そのあと徳川幕府が築き直した。いま大阪城公園で見える石垣も堀も大手門も、すべて徳川時代以降のものである。天守は昭和6年(1931年)に市民の寄付で建てられた3代目にあたる。豊臣期の石垣は、その地面の下に残っている。つまり、この順路がたどった側の城は、もう地上には無い。

歩く距離と時間

全5地点。地点どうしを直線で結んだ距離の合計は約6.4km、実際に歩く距離は約8.4kmほど、歩く時間は約1時間45分を見込んでおくとよい。

上町台地を北から南へ。①から②の間は台地へ上る坂になる。③から④までがいちばん長い。

算出方法: 直線距離は各地点の緯度経度から計算した大円距離の合計。街路は直線では繋がっていないため、実際の歩行距離はその1.3倍として見積もり、所要時間は徒歩80m/分(不動産広告の表示基準と同じ速さ)で換算した。いずれも見積りで、実測値ではない。信号待ち・各地点での滞在時間は含んでいない。

この順路を掘り下げた記事

この順路は全体の流れをたどるもの。個々の地点の詳しい経緯や現地の様子は、下の記事にまとめてある。

参考・出典

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