歴史の痕跡
京都の処刑場跡はどこにあったのか — 粟田口・六条河原の記録
京都の「処刑場跡」を検索すると、たいてい二つの地名に行き当たる。東海道が九条山を越える峠にあった粟田口(あわたぐち)と、鴨川の河原そのものが刑と晒しの場になったと伝わる六条河原だ。先に結論を書くと、どちらも「ここからここまでが刑場だった」と線を引ける一次資料は残っていない。分かるのは、街道の出入口と川の河原という京都の境界に置かれていたこと、そして今もその場所で供養が続いているということだ。
六条河原 — 鴨川の河原が刑場だった
六条河原は、独立した施設ではなく鴨川の河原の呼び名だ。日本歴史地名大系は、六条大路の東の末にあたる鴨川河原で、現在の京都市下京区、五条大橋以南から正面通のあたりまでと記す。デジタル大辞泉も「五条と六条との間の鴨川べり一帯」とする。つまり、いま散歩やランニングで人が行き交うあの河川敷の一角が、かつての刑場だったことになる。
記録に見える歴史は古い。平治元年(1159)には平治の乱の戦場となり、寿永2年(1183)には木曾義仲が天台座主明雲らの首をこの河原に懸けさせたと日本歴史地名大系は記す。時代が下って慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後には石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が、慶長20年(1615)の大坂の陣の後には長宗我部盛親らがここで最期を迎えたと伝わる。
元和5年(1619)には、キリシタン52人が正面橋付近で火刑に処されたと伝わる。京都市のいしぶみデータベースによると、正面橋東詰近くの川端通沿いには、この殉教を悼む石碑「元和キリシタン殉教の地」が平安建都1200年にあたる1994年に建てられている。刑場そのものを示す碑は残っていないとみられるが、この石碑が河原の記憶を伝える数少ない目印になっている。
供養の場は寺にも受け継がれている。下京区の蓮光寺には、もと六条河原の刑場にあったと伝わる駒止地蔵(首斬地蔵とも呼ばれる)が祀られ、長宗我部盛親の墓所もある(新纂浄土宗大辞典)。河原で命を落とした人々の記憶は、河川敷の石碑と寺の地蔵に分かれて残っているわけだ。詳しい年表と出典は「六条河原(処刑・晒しの場とされた鴨川の河原)」のページにまとめてある。
なお、この河原がどういう川だったのかは「鴨川(賀茂川)の氾濫史」のページに整理してある。暴れ川の河原という、市街地と隣り合わせでありながら誰の土地でもない場所。刑場がここに置かれた背景として、この地形は覚えておいていい。
粟田口 — 東海道の峠にあった京都最大級の刑場
もう一つの粟田口刑場は、六条河原とは対照的に、街道の出入口にあった。粟田口は東海道から都へ入る「京の七口」の一つで、刑場は旧東海道(現在の三条通)が九条山を越える峠道沿い、現在の京都市山科区にあったと伝わる。地下鉄蹴上駅から峠を越えた先だ。
天正10年(1582)、山崎の戦いの後に明智光秀の遺骸がこの地に晒されたと伝わる。江戸時代には磔や獄門などが執行される公開の刑場となり、京都最大級とされた。街道の玄関口に刑場を置く構造は、鈴ヶ森・小塚原など江戸の刑場とまったく同じで、都市に出入りする人々への見せしめという役割があったとされる。
明治に入って刑場は廃止され、明治5年(1872)頃には解剖場が置かれた。現在の峠道沿いに残るのは、明治期建立と伝わる「南無阿弥陀仏」の名号碑と萬霊供養塔だ。京都新聞の記事(地域史サイト転載)によると、山裾に並んでいた供養塔の多くは廃仏毀釈や道路開発で失われたが、戦前に地元の人が壊れた供養塔を見つけて再建し、以来三代にわたって年2回の法要が続けられてきたという。2016年には地元有志と町内会が京都市と協議し、三条通沿いに説明板が設置された。刑場の記憶は、行政の史跡指定ではなく、地元の供養の営みによって残ってきた場所だと言える。年表と出典は「粟田口刑場跡(旧東海道・九条山)」のページにまとめてある。
「1万5千人」という数字の出どころ
粟田口については「約1万5千人が処刑された」という数字がよく紹介される。この数字、出どころをたどると意外な作りをしている。寺院が刑死者千人ごとに供養塔を建て、幕末までに15基に達したと伝わることから逆算された、伝承ベースの推定なのだという。
処刑の正確な帳簿が残っているわけではない。だからこの数字は「規模感の言い伝え」として受け取るのが誠実で、確定した史実のように扱うべきではない。六条河原の処刑者についても、軍記物や後世の編纂物を経由した「〜と伝わる」話が多く含まれる。跡地の範囲も人数も断定できない。それが、資料から言えることのすべてだ。
二つの跡地に共通すること
粟田口と六条河原は、性格の違う場所だ。片方は峠の街道筋、片方は市中の河原。それでも共通点が二つある。
一つは、どちらも「都市の境界」に置かれていたことだ。街道の出入口と河原は、町の内側と外側が切り替わる場所で、刑場はその境目に置かれ続けた。これは京都に限らず、江戸の三大刑場が街道沿いに並んでいたのと同じ構造だ。
もう一つは、処刑と供養が同じ場所で営まれてきたことだ。粟田口の名号碑と法要、六条河原の駒止地蔵と殉教碑。刑場の跡は、恐ろしい場所としてではなく、弔いの場所として今日まで手入れされてきた。訪ねるなら、その供養の文脈の中にお邪魔するのだという意識で、静かに手を合わせるのがふさわしい。峠道は交通量が多く歩道も狭いので、通行にも十分気をつけてほしい。
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参考・出典
- 六条河原(ロクジョウガワラ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
kotobank.jp - HI055 元和キリシタン殉教の地
www2.city.kyoto.lg.jp - 蓮光寺 - 新纂浄土宗大辞典
jodoshuzensho.jp - 【京都史跡ぶらり】東海道沿いの最大級刑場!NHK大河ドラマ『麒麟がくる』明智光秀ゆかり☆「粟田口刑場跡」
kyotopi.jp - これも、古いですね‼ - 京都 山科 語り継ぐ
yamasinawokataritugu18101.jimdofree.com