粟田口刑場跡(旧東海道・九条山)|何があった場所か

粟田口刑場は、京の七口の一つ粟田口から九条山の峠(日ノ岡峠)へ向かう旧東海道沿いにあったと伝わる刑場で、江戸時代には磔・獄門・火刑が行われたという。いまは京都市山科区の三条通沿いに刑場跡の説明板が立ち、近くに明治期に建てられたとされる「南無阿弥陀仏」の名号碑が残る。最寄りのバス停は「九条山」で、地下鉄蹴上駅から歩いて10分ほど。
旧東海道(三条通)が九条山を越える峠道沿いにあったと伝わる、京都最大級とされる刑場の跡。江戸後期まで使われたとされ、明治期建立と伝わる「南無阿弥陀仏」名号碑と萬霊供養塔が今も刑死者を静かに弔っている。
時のながれ
- 平安期〜 — 粟田口は東海道から都へ入る「京の七口」の一つ。刑場は平安遷都後から江戸後期まで続いたと伝わる。
- 1582年(天正10) — 山崎の戦いの後、明智光秀の遺体がこの地に晒されたと伝わる。
- 江戸時代 — 街道沿いの公開刑場として刑が執行されたとされる。寺院が刑死者千人ごとに供養塔を建て、幕末までに15基に達したと伝わる。
- 明治初期 — 刑場は廃止。明治5年(1872)頃に粟田口解剖場が置かれ、この頃「南無阿弥陀仏」名号碑・萬霊供養塔が建立されたとされる。山裾の供養塔群の多くは廃仏毀釈や道路開発で失われたと伝わる。
- 昭和戦前〜 — 地元の人が壊れた供養塔を見つけて再建し、以後三代にわたり年2回の法要が続けられてきたと報じられている。
- 設置年不詳 — 地元有志と町内会が京都市と協議し、旧京阪九条山駅跡近くの三条通沿いに説明板を設置。
現地の写真





近くの痕跡
- 車石(旧東海道の牛車道)(地の痕跡・約600m)
- 蹴上インクライン(琵琶湖疏水)(水の痕跡・約840m)
- 岡崎(第4回内国勧業博覧会の跡地と平安神宮)(地の痕跡・約1.6km)
- 鳥辺野(平安京の葬送地・東山)(死の痕跡・約1.6km)
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 京都の観光情報メディアと地域史サイト(京都新聞記事の転載)で、旧東海道が九条山を越える峠道沿いに刑場があったと伝わること、明治期建立と伝わる「南無阿弥陀仏」名号碑と萬霊供養塔が残ること、地元有志と町内会が京都市と協議して三条通沿いに説明板を設置したことを確認した(設置年は、出典の転載記事に日付が無く確認できていない)。
- 所在地の区は参照した4つの資料すべてで山科区に一致することを確認した。
- 2026年9月23日に現地を訪ね、三条通沿いの説明板「粟田口刑場跡」の全文を撮影した。設置者は九条山峠町町内会・京都市。板は、この地が東国から都への交通の要衝で粟田口に位置すること、ここが東海道最後の難所である日岡峠につづく高みで粟田口峠と呼ばれたこと、元文元(1736)年に五条坂安祥院住持の木食正禅により木橋が石橋に架け替えられるとともに切り下げられたこと、文化年間に車道へ車石舗装がされ人馬道に灯籠が建てられたこと、慶応3(1867)年に急峻な日岡峠を避けて北に新道を付け替えた結果、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれるようになったこと、古来この地に公開処刑場が設けられ江戸時代には粟田口(日岡)刑場として磔・獄門・火刑が行われたこと、刑場を望む山裾に宗教者によって何基もの供養塔が建てられたこと、明治5(1872)年にこの刑場跡地の後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ近代医学の発展に寄与したこと、明治初期の廃仏毀釈や開発で供養塔や経王塔が破壊され道路側溝の蓋石や石垣石にされたこと、明治8〜10年の日岡峠切り下げ工事と昭和6〜8年の京津国道改良工事で景観が一変したこと、日岡擁壁に旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残り、当町の南の日ノ岡朝田町に出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されていることを記している。
- 説明板のすぐ横の斜面に、草に半ば埋もれた石碑が立っているのを現地で確認し撮影した。よく見ないと気づかない位置にある。
- 最寄りの停留所が市バス「九条山」であり、そこから歩いてすぐの三条通沿いに説明板が立つことを現地で確認した。説明板の脇から山手へ上がる石段は柵で塞がれていて登れない。説明板の前後の三条通は歩道が細く、車の通行が絶えない。
そのため、このページではこうしています
- 座標はオープンストリートマップに登録された説明板の地点である。
- 地元で法要が続けられてきた供養の場のため、節度ある訪問を案内している。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 処刑数を約1万5千人とする数字は、供養塔15基×千人という伝承に基づく推定で、記録としては確認できていない。
- 自治体公式・辞典級の資料には到達できておらず、京都市のいしぶみデータベースは接続できず照会できていない。
- 現地の説明板には、処刑された人数も、供養塔がいくつ建てられたかの数も書かれていない。2026年9月23日に板の全文を確認したが、千人ごとに供養塔を建てて幕末までに15基に達したという伝えの裏づけは現地でも得られなかった。
- 説明板の横に立つ石碑が、資料にいう「南無阿弥陀仏」名号碑・萬霊供養塔のどれにあたるかは、碑面が草に覆われていて現地では判読できなかった。
- 説明板の前後に車を停められる場所は見当たらなかった。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 【京都史跡ぶらり】東海道沿いの最大級刑場!明智光秀ゆかり「粟田口刑場跡」
KYOTOPI(京都観光情報メディア) - 粟田口刑場趾 ひっそりと世を見つめる名号碑
ガイドブックに載らない京都 - 粟田口刑場跡に説明板 京都・山科 処刑場の史実を後世に(京都新聞記事の転載)
山科を語り継ぐ(地域史サイト) - 粟田口刑場跡 クチコミ・アクセス
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訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :要約の冒頭に、所在地と現状の要約を足した。刑場がどこにあり、跡地がいまどうなっているかが、これまでの要約の先頭からは分からなかったため。時のながれの「明智光秀の首がこの地に晒された」を、出典の書き方どおり「遺体が晒された」に改めた。説明板の設置を2016年とする記述も、出典の記事に日付が無く年を確かめられなかったため、編集部の調査メモと時のながれの両方で設置年は分からないとした。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。