粟田口刑場跡(旧東海道・九条山)|何があった場所か
旧東海道(三条通)が九条山を越える峠道沿いにあったと伝わる、京都最大級とされる刑場の跡。江戸後期まで使われたとされ、明治期建立と伝わる「南無阿弥陀仏」名号碑と萬霊供養塔が今も刑死者を静かに弔っている。
時のながれ
- 平安期〜 — 粟田口は東海道から都へ入る「京の七口」の一つ。刑場は平安遷都後から江戸後期まで続いたと伝わる。
- 1582年(天正10) — 山崎の戦いの後、明智光秀の首がこの地に晒されたと伝わる。
- 江戸時代 — 街道沿いの公開刑場として刑が執行されたとされる。寺院が刑死者千人ごとに供養塔を建て、幕末までに15基に達したと伝わる。
- 明治初期 — 刑場は廃止。明治5年(1872)頃に粟田口解剖場が置かれ、この頃「南無阿弥陀仏」名号碑・萬霊供養塔が建立されたとされる。山裾の供養塔群の多くは廃仏毀釈や道路開発で失われたと伝わる。
- 昭和戦前〜 — 地元の人が壊れた供養塔を見つけて再建し、以後三代にわたり年2回の法要が続けられてきたと報じられている。
- 2016年(平成28) — 地元有志と町内会が京都市と協議し、旧京阪九条山駅跡近くの三条通沿いに説明板を設置。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 京都の観光情報メディアと地域史サイト(京都新聞記事の転載)で、旧東海道が九条山を越える峠道沿いに刑場があったと伝わること、明治期建立と伝わる「南無阿弥陀仏」名号碑と萬霊供養塔が残ること、2016年に地元有志と町内会が京都市と協議して三条通沿いに説明板を設置したことを確認した。
- 所在地の区は参照した4つの資料すべてで山科区に一致することを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標はオープンストリートマップに登録された説明板の地点である。
- 地元で法要が続けられてきた供養の場のため、節度ある訪問を案内している。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 処刑数を約1万5千人とする数字は、供養塔15基×千人という伝承に基づく推定で、記録としては確認できていない。
- 自治体公式・辞典級の資料には到達できておらず、京都市のいしぶみデータベースは接続できず照会できていない。
参考・出典
- 【京都史跡ぶらり】東海道沿いの最大級刑場!明智光秀ゆかり「粟田口刑場跡」
KYOTOPI(京都観光情報メディア) - 粟田口刑場趾 ひっそりと世を見つめる名号碑
ガイドブックに載らない京都 - 粟田口刑場跡に説明板 京都・山科 処刑場の史実を後世に(京都新聞記事の転載)
山科を語り継ぐ(地域史サイト) - 粟田口刑場跡 クチコミ・アクセス
フォートラベル
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
近くの痕跡
- 鳥辺野(平安京の葬送地・東山)(死の痕跡・約1.6km)
- 馬町空襲の地(京都で最初の空襲とされる東山・馬町の戦災記録)(戦の痕跡・約1.9km)
- 池田屋事件の跡(三条小橋のたもと・池田屋騒動之址の石標)(戦の痕跡・約2.2km)
- 高瀬川 一之船入(慶長期の運河に唯一残る船溜まりの堀割)(水の痕跡・約2.3km)