歴史の痕跡
京の三つの葬送地 — 鳥辺野・化野・蓮台野は、なぜ都の外に置かれたのか
平安京の東に鳥辺野、西に化野、北に蓮台野という葬送地があったとされ、刑場とされる粟田口や六条河原と同じく都の外側にあった。範囲は資料によって幅があり、いまは大谷本廟、あだし野念仏寺、千本ゑんま堂などに、道標や集められた石仏、供養の営みとして手がかりが残る。
目次(6項目)
平安京には、都の東・西・北に葬送の地があったとされる。
東の鳥辺野、西の化野、北の蓮台野である。三つの名は、いまも寺や町の案内に残っている。ただし、当時の境界線が地図に一本引かれていたわけではない。どこからどこまでを指したかは資料によって幅があり、現在の一点を「葬送地そのもの」と断定することもできない。

それでも、三つを並べると平安京の輪郭が見えてくる。都の中心から外へ運ばれた人々と、その後を引き受けた寺院。物として残ったのは墓石だけではなく、道標、文学、地名、そして供養を続ける営みだった。
都の外側に置かれたのは、葬送地だけではない。東海道が九条山を越える峠道沿いの粟田口と、鴨川の河原だった六条河原も、町の内と外が切り替わる場所で、そこが刑と晒しの場になったと伝わる。二か所は「京都の処刑場跡はどこにあったのか」にまとめた。
東の鳥辺野 — 煙が文学に残った
鳥辺野は、清水寺の南から阿弥陀ヶ峰の西麓に広がる、平安時代以来の葬送地とされる。コトバンクに収録された複数の辞典は、9世紀から記録に現れ、中世には化野と並ぶ京都の葬墓地になったと説明している。
ここは文学の中にも早くから現れる。『源氏物語』「葵」では葵の上の葬送地として「鳥べ野」が描かれた。『徒然草』にも「鳥部山の煙」という言葉が出る。火葬の煙は、遠くからでも都の人の目に入ったのだろう。藤原道長もこの地で荼毘に付されたと伝わる。
鎌倉時代には、親鸞が鳥辺山南辺で火葬され、その遺骨が鳥辺野北辺の「大谷」に納められたと伝えられる。大谷本廟の公式沿革によれば、廟堂が現在地へ移ったのは慶長8年(1603年)である。五条坂には「大谷とりへの」を示す道標も残る。京都市のいしぶみデータベースが記録する、葬送地の名を現在へ渡す小さな物証である。

鳥辺野の範囲には諸説がある。地図の代表地点は大谷本廟付近とした。位置・年表・資料は鳥辺野のスポットページにまとめた。
西の化野 — 石仏が集められた
化野は、嵯峨野の奥にある。「あだし」には、はかない、むなしいという意味があるとされる。『徒然草』第7段の「あだし野の露消ゆる時なく」は、人がいつまでも生き続けることのない世を、化野の露に重ねた一節である。
あだし野念仏寺の公式サイトと京都市観光協会の案内は、この一帯を平安期以来の葬送地と説明する。寺の始まりは、空海が葬られた人々を祀るため五智山如来寺を開いたという伝承に結びつく。のちに法然が常念仏道場としたと伝わり、現在の念仏寺へ続いた。
境内の「西院の河原」には、約8000体とされる石仏・石塔が並ぶ。これらは明治中期、化野一帯に散在していた無縁仏を地元の人々が集めたものだという。約8000体という数は京都市観光協会の案内によるもので、平安期に葬られた人々の総数を示す数字ではない。
毎年8月には石仏・石塔へ灯明を供える千灯供養が営まれる。昔の葬送地がそのまま残ったのではなく、散らばっていた石を集め、供養の形を整え直したことで、いま目に見える場所になったのである。

寺の由緒と参拝時の注意は化野のスポットページで確認できる。
北の蓮台野 — 入口の寺が残った
蓮台野は、船岡山の西から紙屋川に至る一帯に広がったとされる。東の鳥辺野、西の化野に比べると、現在の地図でひと目に範囲をつかみにくい。上品蓮台寺や天皇の火葬塚がある地域を含み、平安京北郊の葬送地として辞典類に記録されている。
その入口にあたると伝わるのが、千本ゑんま堂、正式には引接寺である。寺の由緒では、小野篁が閻魔像を安置したことを始まりとする。事実として確認できるのは、現在も寺があり、蓮台野の入口と伝えて供養の営みを続けていることだ。
近くの上品蓮台寺について、『日本紀略』を引く辞典は、天徳4年(960年)に宇多法皇の弟子・寛空が創建したと記す。別の辞典は、創建か堂宇の再興かは断定しがたいとしている。後冷泉天皇と近衛天皇の火葬塚もこの地域に残る。蓮台野は一枚の遺跡として囲われているのではなく、寺、陵墓地、町並みの間に複数の手がかりを残している。
千本通の名を、葬送の道沿いに立てられた千本の卒塔婆に結びつける説もある。ただし地名の由来には諸説がある。
代表地点を千本ゑんま堂とした理由と出典は蓮台野のスポットページにある。
代表地点は、範囲を示す境界線ではない
地図の代表地点は、鳥辺野が大谷本廟、化野があだし野念仏寺、蓮台野が千本ゑんま堂である。しかし三つの名は、その一か所だけを指すのではない。いずれも周辺へ広がりを持った地域の呼び名である。
この区別は、現地を歩くときにも重要になる。寺の境内に入ったからといって、そこに平安期の葬送地が当時の姿のまま保存されているとは限らない。反対に、寺の外へ出たから葬送地ではなくなるとも言えない。現在見られる堂宇、石仏、道標、火葬塚は、それぞれ異なる時代を経て残った手がかりである。
三つの地域を一つの線で囲うより、どの資料がどの場所を指し、何が現在まで残ったのかを分けて見るほうが、土地の変化を追いやすい。
三つを同じものにしない
鳥辺野には、文学と道標、大谷本廟へ続く歴史がある。化野では、散在していた石仏・石塔が集められ、千灯供養が続く。蓮台野は、寺院や火葬塚の間に広い地域の記憶が分かれて残る。
どれも葬送地と呼ばれるが、残り方は同じではない。平安時代の地面がそのまま保存されている、と考えるのも正確ではない。後の時代に寺が移り、石が集められ、供養の形が整えられた。その積み重ねも含めて、土地の記録である。
三つの場所を結んで見えるのは、死を都から遠ざけた配置だけではない。都の外側で、名も分からなくなった人を祀り、煙や露を言葉にし、墓や寺を守ってきた側の時間である。

訪ねる前に
大谷本廟、あだし野念仏寺、千本ゑんま堂、上品蓮台寺はいずれも現役の宗教施設である。周囲には墓地、陵墓地、住宅地もある。静かに参拝し、墓域や私有地へ入らない。墓石や供養の最中を撮影しない。写真の可否は、その場の掲示と寺院の案内に従う必要がある。
葬送地の名は、誰かを怖がらせるために残ったのではない。そこで葬られ、祀られてきた人々がいたことを示す名である。現地では、その順番を崩さずに向き合いたい。
この土地に、何があったか。→ 痕跡マップで調べる
この記事の場所のそばにある痕跡
- 馬町空襲の地(京都で最初の空襲とされる東山・馬町の戦災記録)(鳥辺野 から 戦の痕跡・約250m)
- 方広寺大仏殿跡(京の大仏)(鳥辺野 から 地の痕跡・約450m)
- 六波羅探題跡・平氏六波羅第(鳥辺野 から 戦の痕跡・約522m)
- 近江屋跡(坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地)(鳥辺野 から 死の痕跡・約1.5km)
鳥辺野の周りに、ほかに何が残っているか。
鳥辺野のまわりをひらく →参考・出典
8件出典に基づいて掲載している
- 鳥辺野(トリベノ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
kotobank.jp - 沿革 | 大谷本廟【西大谷】
otani-hombyo.hongwanji.or.jp - HI084 大谷・鳥部野【道標】
www2.city.kyoto.lg.jp - 華西山東漸院念仏寺|あだし野念仏寺
nenbutsuji.jp - あだし野念仏寺|【京都市公式】京都観光Navi
ja.kyoto.travel - 蓮台野(レンダイノ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
kotobank.jp - 上品蓮台寺(ジョウボンレンダイジ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
kotobank.jp - 千本ゑんま堂 引接寺: 千本ゑんま堂縁起
yenmado.blogspot.com
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