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現地レポ

真夏の京都、幕末跡を歩いた一日

2026-08-23 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部

8月22日、京都の幕末の現場を一日かけて歩いてきた。

朝は別の用事で車だった。名阪国道を関で降りて、国道1号線で亀山、滋賀、京都と向かう。あとで気づいたのだが、このルートはほぼ旧東海道である。関宿は東海道の宿場町。国道1号線は東海道をなぞって走り、京都の三条大橋がその終点になる。つまりこの日は、東海道を車で走って幕末の京都に入ったことになる。狙ったわけではない。

そして道中、さっそく拾いものをした。

亀山で、古代の「駅」を見つける

覆屋に納められた先々代の松の残株。手前に見える細い松が、令和5年に植えた三代目
覆屋に納められた先々代の松の残株。手前に見える細い松が、令和5年に植えた三代目

亀山市関町古厩(ふるまや)。名阪国道のそばの集落で、「鈴鹿駅跡」という史跡標柱と、立派な覆屋に守られた巨大な松の切り株を見つけた。

説明板によると、ここは大化の改新のころに置かれた古代の駅(うまや)の跡と伝わる。駅というのは、街道を行き来する役人のために馬を乗り継がせた国家の施設だ。「古厩」という集落の名前そのものが、その記憶だという。

目印とされてきた「御厩の松」は、三代にわたって植え継がれていた。先々代は高さ15メートル、幹回り6メートルの巨木で、県の天然記念物。マツクイムシにやられて昭和57年に伐採された。二代目も平成27年に同じ虫で伐採。いまは令和5年1月に植えたばかりの三代目が、支柱に支えられて立っている。2代続けて同じ虫に枯らされて、それでも植える。

ひとつ気になったことがある。現地には説明板が2枚あって、木製の古い板(亀山市教育委員会・平成3年)は先々代の樹齢を「四〇七年」、金属製の新しい板(亀山市・令和5年)は「四七〇年」と書いている。407と470。数字が入れ替わっている。どちらが正しいのかは、この場では分からない。

古代の駅の跡を見てから東海道を京都へ走る。いま思えば、この日はずっと「道」の上にいた。

蛤御門 — 弾痕は、人の高さに集まっていた

京都に着いたのは14時。丸太町駅近くのパーキングに車を停めて、歩き始めた。最初の目的地は京都御苑の蛤御門である。

1864年の禁門の変(蛤御門の変)で、長州藩と会津・薩摩藩がこの門の周辺で激突した。環境省の公式サイトには「弾傷らしき跡が残っています」とある。「らしき」。国は断定していない。

蛤御門。烏丸通に面して立つ
蛤御門。烏丸通に面して立つ
門の説明板。「梁や柱の部材には、戦闘の際の弾傷らしき痕を見ることができます」とある
門の説明板。「梁や柱の部材には、戦闘の際の弾傷らしき痕を見ることができます」とある

実物の門の前に立つ。弾痕は、探すまでもなかった。

柱に残る凹み。ひとつの柱にいくつも散らばっている
柱に残る凹み。ひとつの柱にいくつも散らばっている
指を添えてみる。爪の幅ほどの小さな穴だ
指を添えてみる。爪の幅ほどの小さな穴だ

事前に「直径1センチほどの浅い凹みで、ライトを当てないと写らない」という情報を調べていたのだが、ライトなしではっきり分かる。柱にも、扉にも、左右どちらにもある。ひとつの柱に複数の凹みが集まっている場所もあった。

しばらく眺めていて、気づいたことがある。凹みは、ちょうど人の高さに集中している。頭から腹のあたり。上の梁を見上げても、それらしい跡は見当たらなかった。現地の説明板は「梁や柱の部材には、戦闘の際の弾傷らしき痕を見ることができます」と書いているが、少なくとも私の目では、梁には見つけられなかった。

偶然の傷なら、高さはばらばらになるはずだと思う。

門の内側から烏丸通を見る。向こうは現代の京都
門の内側から烏丸通を見る。向こうは現代の京都

門の向こうには烏丸通の車が走り、ホテルが見える。160年前の激戦地の前を、市バスが普通に通っていく。

薩摩藩邸は、同志社の前にあった

蛤御門から烏丸通を北へ10分ほど歩くと、同志社大学の西門前に「薩摩藩邸跡」の碑が立っている。

「薩摩藩邸跡」の石標。道に対して斜めに立っている
「薩摩藩邸跡」の石標。道に対して斜めに立っている
説明板。薩摩藩邸から同志社まで、この土地の来歴が書かれている
説明板。薩摩藩邸から同志社まで、この土地の来歴が書かれている

正直、びっくりした。薩摩藩の京都拠点が、同志社の目の前——というより、説明板を読むと、同志社今出川キャンパスの約3分の2がそのまま薩摩藩邸の敷地だったのだ。

説明板には土地の来歴が書かれていた。文久2年(1862)、薩摩藩が相国寺から土地を借りて藩邸を造営。明治になって京都府が接収し、民間に売却され、人手を経て新島襄が購入して同志社になった。

面白いのは山本覚馬という人物だ。会津藩士——つまり薩摩と戦った側の人で、戊辰戦争のあとこの藩邸に幽閉された。その幽閉中に書いた建白書『管見』が、京都の近代化の指針になったと説明板にある。そして覚馬の妹の八重は、のちに新島襄と結婚する。撃った側の屋敷に閉じ込められた男が、その土地の次の姿につながっていく。

相国寺 — 撃たれた側は、徒歩5分の墓地に眠っていた

薩摩藩邸跡から歩いて5分、相国寺に入った。境内が広く、迷って正門の守衛さんに聞いたら、親切に教えてくれた。ついでに「伊藤若冲のお墓は生前に作られたものなので、絶対見たほうがいいですよ。竹が2本が目印です」とのこと。

本山墓地の案内図を見て驚く。足利義政、藤原定家、藤原頼長、伊藤若冲——そして「長州藩士墓」。平安から幕末まで、700年分の人が同じ墓地に並んでいる。

「禁門変長州藩殉難者墓所」の石標
「禁門変長州藩殉難者墓所」の石標

蛤御門で戦って死んだ長州藩士の墓所は、その一角にあった。墓地の中には一般の方のお墓も並んでいる。特別な慰霊施設ではなく、寺の普通の墓地の中に、蛤御門の死者が眠っている。ここでは石標と供養塔だけ撮って、あとは手を合わせた。

墓地へ続く道。土塀の向こうに現代の建物が見える
墓地へ続く道。土塀の向こうに現代の建物が見える

墓地の外れに立つと、竹藪の向こうに同志社のレンガ校舎が見えた。長州藩士の墓から、彼らを撃った薩摩の藩邸があった場所が見えている。なんともいえないアンバランスな眺めだった。

ちなみにこの土地の貸主は相国寺である。薩摩は相国寺から土地を借り、その相国寺の墓地に、薩摩が撃った長州藩士が眠っている。徒歩5分の円の中に、敵も味方も全部いる。

河原町 — 「こんなところに」の連続

地下鉄で河原町へ移動した。京都市役所前駅の2番出口を出てすぐ、スギ薬局の隣に石標が立っている。

薬局の隣に立つ石標。「此附近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」と「北隣地 明治時代 山本覚馬・八重邸宅跡」が一本に刻まれている
薬局の隣に立つ石標。「此附近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」と「北隣地 明治時代 山本覚馬・八重邸宅跡」が一本に刻まれている

「池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」。松下村塾で高杉晋作らと並び称された長州藩士が、ここで死んだ。池田屋はここから400メートルほど南だ。つまり池田屋事件の斬り合いは、建物の中で終わらず、ここまで及んでいる。

そして同じ石標に「山本覚馬・八重邸宅跡」とある。さっき薩摩藩邸で名前を知ったばかりの、あの覚馬の家だ。隣の説明板の地図には、幕末の各藩の屋敷といまの建物が重ねて描かれていた。長州藩邸は京都ホテルオークラ。加賀藩邸は京都信用金庫。薩摩藩邸は同志社。覚馬の家はスギ薬局のあたり。ひとつも残っていない。全部、別のものになっている。

池田屋 — 事件の名前を掲げた居酒屋

16時18分、池田屋騒動址に着いた。三条通の木屋町西入ル。碑と解説パネルが歩道に立っていて、その後ろは「池田屋はなの舞」という居酒屋である。瓦屋根に格子、「誠」の幟。事件の名前を、そのまま看板にして営業している。

三条通に面した「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞」。当時の屋号がそのまま看板になっている
三条通に面した「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞」。当時の屋号がそのまま看板になっている
店先に立つ「史蹟 池田屋騒動之址」の石碑。右上の貼り紙が「池田屋騒動殉難者供養の日」の案内で、その下は店のメニュー
店先に立つ「史蹟 池田屋騒動之址」の石碑。右上の貼り紙が「池田屋騒動殉難者供養の日」の案内で、その下は店のメニュー

来るまで、池田屋はもっと街外れにあると思っていた。実際は京都でいちばんの繁華街のど真ん中だ。しかも歩いてみて分かったが、このあたりは事件の跡だらけである。三条通は東海道の終点で、目の前の三条大橋が京都の入口。人と物と情報が集まる場所だったから、旅籠が並び、藩邸が集まり、密議も襲撃もここで起きた。いまの繁華街と当時の要衝は、同じ理由で同じ場所にある。

店の前の貼り紙に、三条小橋商店街が7月15日(旧暦6月5日)を「池田屋騒動殉難者供養の日」と定めた、とあった。「撰組・佐幕派という区分けをせずに」供養する、と書いてある。行政でも寺でもなく、商店街が決めて続けている。

瑞泉寺 — 高瀬川を掘ったら、墓が出てきた

木屋町通を南へ歩く途中、「豊臣秀次公之墓」の石標を見つけて足が止まった。瑞泉寺。幕末より250年さかのぼる話だが、この日いちばん背筋が伸びた場所のひとつだった。

瑞泉寺の案内板。「太閤記の寺」とある
瑞泉寺の案内板。「太閤記の寺」とある

説明板によると、文禄4年(1595)、秀吉の甥・秀次が高野山で自害させられたあと、その幼児や妻妾たち39人が三条大橋西畔の河原で処刑され、その場に埋められて塚が築かれた。塚は鴨川の氾濫で荒れ果てる。慶長16年(1611)、角倉了以が高瀬川を開削する工事の途中でこの墓石を掘り当て、堂を建てて弔った。それがこの寺の始まりだという。

運河を掘ったら、処刑された39人の墓が出てきた。その高瀬川が通ったから木屋町は舟運で栄え、幕末には志士が集まり、いまは飲み屋街になっている。この通りの賑わいの下に、そういう順番が埋まっている。

酢屋 — 龍馬を匿った家が、そのまま残っていた

そして酢屋である。この日いちばん感動した場所を選ぶなら、ここだ。

酢屋の店先。「龍馬がいた部屋 公開中」の立て看板が出ている
酢屋の店先。「龍馬がいた部屋 公開中」の立て看板が出ている

坂本龍馬が身を寄せ、海援隊の京都本部が置かれた材木商。その建物が、いまもそのまま建っている。しかも、いまも材木商として営業している。「酢屋」は享保6年(1721)から300年あまり続く店の屋号で、当時の6代目嘉兵衛が龍馬を匿い、その子孫の10代目が現在も看板を継いでいる。

正直、鳥肌が立った。この日見てきた場所は、全部が別のものに変わっていた。薩摩藩邸は大学に、長州藩邸はホテルに、池田屋は居酒屋に。その中で酢屋だけが、建物も商売も家も、変わらずに続いている。

もらった資料を読んで、なぜ龍馬がここにいたのかが腑に落ちた。当時の6代目嘉兵衛は材木業のかたわら、角倉家から高瀬川の木材独占輸送権を得て運送業も握っていた。そして当時、この家の前は高瀬川の大きな舟入——船着き場だったのだという。高瀬川沿いには各藩の藩邸が建ち並び、伏見や大阪との連絡にも都合がいい。物流と情報が集まる場所に、材木商の顔で出入りできる。だから龍馬はここに身を寄せた。

さっき瑞泉寺で、高瀬川を掘ったら秀次一族の墓が出てきた話を読んだばかりだった。同じ川が、こちらでは龍馬をここへ引き寄せている。

2階は「龍馬が居た部屋」として公開されている(2026年8月時点で高校生以上700円・中学生まで無料。館内は撮影も筆記も不可)。しかもこの2階の表西側の部屋こそ、龍馬が船中八策をまとめた部屋だという。家の者からは「才谷さん」と呼ばれていたそうだ。そして11月15日、近江屋で龍馬が斬られた直後、海援隊の隊士たちが急ぎ集まったのも、この2階の一室だったという。

あの階段を上がった先が、その部屋なのかと思うと、700円は安い。

お店の方に聞いた話がふたつ、印象に残っている。ひとつは、毎年11月15日——龍馬の誕生日であり命日——に、社長さん主催で龍馬を偲ぶ会をやっていて、毎年200人ほど集まるということ。もうひとつは、外国人観光客のこと。「金閣寺や清水寺は地図アプリで紹介されるけれど、池田屋や酢屋は載らない。坂本龍馬を知らない外国の方も多い」。だから酢屋は1階でお箸や木の器を売って、まず手に取ってもらうことから始めているそうだ。

たしかにこの日、河原町は訪日客であふれていたのに、池田屋の碑に足を止める人はほとんど見なかった。ここにあるのは、知らないと見えない場所ばかりなのだ。

近江屋 — 龍馬が死んだ場所は、カラオケ店の前

河原町通に戻って南へ。蛸薬師通を過ぎたあたりの歩道に、その碑はある。

「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」の石碑。花が供えられていた
「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」の石碑。花が供えられていた
河原町商店街が掲げる二人の肖像パネル
河原町商店街が掲げる二人の肖像パネル

「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」。慶応3年(1867)11月15日の夜、龍馬はここにあった醤油商・近江屋の2階で襲撃され、その場で絶命した。33歳。駆けつけていた中岡慎太郎は二日後に亡くなる。30歳。王政復古の大号令の、1か月前のことだ。

碑の後ろはカラオケ店である。土地の履歴を調べると、旅行会社、コンビニ、回転寿司ときて、2024年からカラオケ店になった。碑には花が供えられていて、河原町商店街振興組合が寄贈した柱も立っている。街の人が手を入れていることは、ちゃんと分かる。

それでも——もう少し丁重に扱ってほしい、と思ってしまった。池田屋は事件の名前を看板に掲げている。ここは店名の一部に「近江屋店」とあるだけだ。東京の平将門の首塚のように、一等地でも場所そのものが守られている例を知っているだけに、余計にそう感じたのかもしれない。これは私の個人的な感想である。

碑の刻字を四面ぜんぶ撮った。北面に「寄贈者 旧井口新助氏宅 井口新之助」とある。井口家は近江屋の当主の家だ。碑を建てるとき、近江屋の家がそれを寄贈した。ここが近江屋だったことの、いちばん確かな物証がこの一行だと思う。

近江屋から95メートル、徒歩1分ほどの抹茶屋さんの前に、中岡慎太郎寓居地の碑もあった。遭難した場所と住んでいた場所が、歩いて1分である。

六条河原 — 何も、なかった

最後に、五条大橋から鴨川沿いを南へ歩いた。六条河原。平安末期から江戸初期にかけて、処刑と晒しの場になったと伝わる河原だ。石田三成も、小西行長も、長宗我部盛親も、ここで最期を迎えたとされる。

四条から歩いてくると、川沿いには川床が並び、たくさんの人が座って夕涼みをしていた。五条大橋を越えても、100メートルほどは店が続く。だが、そこで途切れた。

五条大橋の手前。川に張り出した床が並び、店が続く
五条大橋の手前。川に張り出した床が並び、店が続く
そこから南へ歩くと、店が途切れる。あとは遊歩道と草と河原だけで、看板も案内もない
そこから南へ歩くと、店が途切れる。あとは遊歩道と草と河原だけで、看板も案内もない

処刑場跡とされるあたりには、何もなかった。草と砂利。看板もない。座る場所もない。対岸は普通の住宅街で、夕日が沈んでいくだけだった。

この日見てきた場所を並べてみる。蛤御門には弾痕が残っていた。相国寺には墓があった。池田屋には碑と看板があった。近江屋には碑と花があった。そして六条河原には、何もない。土地の記憶の残り方の、いちばん端がここだった。

帰りに、六条河原の刑場にあったと伝わる「駒止地蔵」が移された蓮光寺に寄った。18時21分。門は閉まっていた。門前の説明板だけ読む。鴨川の氾濫で土に埋まっていた地蔵を、平清盛の馬がその上で動かなくなったことで掘り出した——という伝承が書かれていた。河原の記憶は流され、埋まり、掘り出されて、川から離れた寺に移されて残る。瑞泉寺と同じ形だった。

歩き終えて

小学校の修学旅行で、この河原町に来たはずである。当時は全く興味がなかった。何も見えていなかったのだと思う。

今回は違った。蛤御門の凹みが弾痕に見え、同志社の校舎が薩摩藩邸に見え、居酒屋の前の碑が事件現場に見えた。場所は何ひとつ変わっていない。変わったのは、こちらの頭の中だけだ。

池田屋から近江屋までは428メートル、歩いて5分。蛤御門までは約2キロ。この2キロ圏内で起きたことが、日本の進路を決めた。そしてその現場は、いま大学とホテルと居酒屋とカラオケ店と、何もない河原になっている。

知らずに歩けば、ただの繁華街である。知って歩くと、こんなに面白い街もない。

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参考・出典

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