現地レポ
真夏の京都、幕末跡を歩いた一日
8月22日に京都の幕末の現場を歩いた記録。丸太町に車を停めて蛤御門、同志社前の薩摩藩邸跡、相国寺の長州藩士墓へ。地下鉄で河原町に出て池田屋、瑞泉寺、龍馬が居た部屋を700円で見られる酢屋、近江屋跡、六条河原まで。歩いた順と時刻、相国寺の特別拝観の時期も書いた。
目次(13項目)
8月22日、京都の幕末の現場を一日かけて歩いてきた。14時に丸太町で車を停めて、蛤御門から六条河原まで。途中で一度だけ地下鉄に乗り、あとは全部歩いた。
車は丸太町に停めて、河原町へは地下鉄で
朝は別の用事で車だった。名阪国道を関で降りて、国道1号線で亀山、滋賀、京都と向かう。あとで気づいたのだが、このルートはほぼ旧東海道である。関宿は東海道の宿場町。国道1号線は東海道をなぞって走り、京都の三条大橋がその終点になる。つまりこの日は、東海道を車で走って幕末の京都に入ったことになる。狙ったわけではない。
京都に着いたのは14時。丸太町駅近くのパーキングに車を停めて、歩き始めた。蛤御門から烏丸通を北へ歩いて同志社前の薩摩藩邸跡、そこから5分で相国寺。ここまでは歩いて回れる。

相国寺から河原町へは地下鉄で移動した。京都市役所前駅の2番出口を出れば、池田屋、瑞泉寺、酢屋、近江屋はどれも歩いて行ける。最後は四条大橋から鴨川沿いを南へ歩いて六条河原へ。帰りに寄った蓮光寺で、18時21分だった。

蛤御門 — 弾傷らしき凹みは、ライトなしでも見える
最初の目的地は京都御苑の蛤御門である。



実物の門の前に立つ。弾傷らしき凹みは、探すまでもなかった。


事前に「直径1センチほどの浅い凹みで、ライトを当てないと写らない」という情報を調べていたのだが、ライトなしではっきり分かる。



しばらく眺めていて、気づいたことがある。凹みは、ちょうど人の高さに集中している。頭から腹のあたり。上の梁を見上げても、それらしい跡は見当たらなかった。現地の説明板は「梁や柱の部材には、戦闘の際の弾傷らしき痕を見ることができます」と書いているが、少なくとも私の目では、梁には見つけられなかった。


1864年の禁門の変(蛤御門の変)で、長州藩と会津・薩摩藩がこの門の周辺で激突した。環境省の公式サイトには「弾傷らしき跡が残っています」とある。「らしき」。国は断定していない。目視だけで個々の凹みの原因までは確定できない。門の来歴と年表は「蛤御門の弾痕と伝わる跡(禁門の変の最大の激戦地)」のページにまとめてある。

薩摩藩邸跡 — 同志社大学の西門前に石標と説明板
蛤御門から烏丸通を北へ10分ほど歩くと、同志社大学の西門前に「薩摩藩邸跡」の碑が立っている。


びっくりした。薩摩藩の京都拠点が、同志社の目の前——というより、説明板を読むと、同志社今出川キャンパスの約3分の2がそのまま薩摩藩邸の敷地だったのだ。

説明板には土地の来歴が書かれていた。文久2年(1862)、薩摩藩が相国寺から土地を借りて藩邸を造営。明治になって京都府が接収し、民間に売却され、人手を経て新島襄が購入して同志社になった。

面白いのは山本覚馬という人物だ。会津藩士——つまり薩摩と戦った側の人で、戊辰戦争のあとこの藩邸に幽閉された。その幽閉中に書いた建白書『管見』が、京都の近代化の指針になったと説明板にある。そして覚馬の妹の八重は、のちに新島襄と結婚する。撃った側の屋敷に閉じ込められた男が、その土地の次の姿につながっていく。
石標の刻字と、相国寺から薩摩藩、京都府、そして同志社へと移ったこの土地の来歴は「薩摩藩邸跡(二本松屋敷・同志社大学西門前の石標)」のページにまとめてある。
相国寺 — 長州藩士の墓に手を合わせる。秋は特別拝観も
薩摩藩邸跡から歩いて5分、相国寺に入った。境内が広く、迷って正門の守衛さんに聞いたら、親切に教えてくれた。ついでに「伊藤若冲のお墓は生前に作られたものなので、絶対見たほうがいいですよ。竹が2本が目印です」とのこと。
本山墓地の案内図を見て驚く。足利義政、藤原定家、藤原頼長、伊藤若冲——そして「長州藩士墓」。平安から幕末まで、700年分の人が同じ墓地に並んでいる。


禁門の変で亡くなった長州藩士の墓所は、その一角にあった。墓地の中には一般の方のお墓も並んでいる。特別な慰霊施設ではなく、寺の普通の墓地の中に、禁門の変の死者が眠っている。そこで手を合わせた。


墓地の外れに立つと、竹藪の向こうに同志社のレンガ校舎が見えた。長州藩士の墓から、長州藩と戦った薩摩藩の藩邸があった場所が見えている。なんともいえないアンバランスな眺めだった。
ちなみにこの土地の貸主は相国寺である。徒歩5分の円の中に、長州藩士の墓と、長州藩と戦った側の藩邸跡がある。
門の脇には特別拝観の案内が立っていた。法堂・方丈・開山堂の公開で、2026年は春期が3月25日から6月2日、秋期が9月26日から12月15日。拝観時間は10時から16時、大人1,000円、小学生から高校生は500円とある。8月のこの日は、ちょうど間の時期だった。

河原町 — 地下鉄の出口の隣に、池田屋事件の石標
京都市役所前駅の2番出口を出てすぐ、スギ薬局の隣に石標が立っている。

「池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」。松下村塾で高杉晋作らと並び称された長州藩士の殉節地を示す碑だ。ただし、碑の冒頭には「此附近」とある。池田屋はここから200メートルほど南だが、正確な死亡地点や、斬り合いが池田屋からこの付近まで連続していたかは、この碑文だけでは分からない。
そして同じ石標に「山本覚馬・八重邸宅跡」とある。さっき薩摩藩邸で名前を知ったばかりの、あの覚馬の家だ。隣の説明板の地図には、幕末の各藩の屋敷といまの建物が重ねて描かれていた。ひとつも残っていない。全部、別のものになっている。

池田屋 — 事件の名前を掲げた居酒屋。7月15日は供養の日
16時18分、池田屋騒動址に着いた。三条通の木屋町西入ル。碑と解説パネルが歩道に立っていて、その後ろは「池田屋はなの舞」という居酒屋である。




店の前の貼り紙に、三条小橋商店街が7月15日(旧暦6月5日)を「池田屋騒動殉難者供養の日」と定めた、とあった。「倒幕派・新撰組・佐幕派という区別をせずに」供養する、と書いてある。行政でも寺でもなく、商店街が決めて続けている。


来るまで、池田屋はもっと街外れにあると思っていた。しかも歩いてみて分かったが、このあたりは事件の跡だらけである。三条通は東海道の終点で、目の前の三条大橋が京都の入口。人と物と情報が集まる場所だったから、旅籠が並び、藩邸が集まり、密議も襲撃もここで起きた。いまの繁華街と当時の要衝は、同じ理由で同じ場所にある。

碑の位置と出典は「池田屋事件の跡(三条小橋のたもと・池田屋騒動之址の石標)」のページに。
瑞泉寺 — 木屋町通の「太閤記の寺」、境内は拝観随意
木屋町通を南へ歩く途中、足が止まった。瑞泉寺。幕末より250年さかのぼる話だが、この日いちばん背筋が伸びた場所のひとつだった。




寺の公式サイトによると、境内の拝観は7時から17時まで、無料。本堂などの建物の中は一般に公開していない。閉門にする日もあるので、寺のサイトの暦で確かめてから行きたい(2026年9月28日確認。京都観光Naviは8時からとしている)。
門前の京都市の説明板によると、文禄4年(1595)、秀吉の甥・秀次が高野山で自害させられたあと、その幼児や妻妾たち39人が三条大橋西畔の河原で処刑され、その場に埋められて塚が築かれた。塚は鴨川の氾濫で荒れ果てる。慶長16年(1611)、角倉了以が高瀬川を開削する工事の途中でこの墓石を掘り当て、堂を建てて弔った。それがこの寺の始まりだという。
寺の公式サイトの由来では、了以は工事の途中で「塚」が荒れ果てているのを見つけ、墓域を整えて寺を建てた、と書かれている。掘り当てたのか、荒れた塚を見つけたのか、説明によって言い方が違う。
運河を掘ったら、処刑された39人を葬った塚の墓石が出てきた。その高瀬川が通ったから木屋町は舟運で栄え、幕末には志士が集まり、いまは飲み屋街になっている。この通りの賑わいの下に、そういう順番が埋まっている。
この寺には、幕末の話もあった。門前には「目付 海防掛 岩瀬忠震 宿所跡」と刻んだ石標が立っている。寺の公式サイトによると、日米修好通商条約の勅許を求めて上京した幕臣・岩瀬忠震が、安政5年(1858)の正月から3か月ほどこの寺を宿所にしていたことが、岩瀬の日記から分かったという。その間の3月24日には、越前福井藩の橋本左内が訪ねてきた。二人が会ったと考えられる、当時から建て替えられていないという座敷は、一般には公開されていない。

酢屋 — 龍馬が居た部屋を、700円で見られる
そして酢屋である。この日いちばん感動した場所を選ぶなら、ここだ。

坂本龍馬が身を寄せ、海援隊の京都本部が置かれた材木商。その家が、いまも同じ場所で材木商を続けている。店の説明では、龍馬がいた2階の部屋には当時の地棟や梁が残り、表の出格子も当時の面影を残しているという。
2階は「龍馬が居た部屋」として公開されている(2026年8月時点で高校生以上700円・中学生まで無料。館内は撮影も筆記も不可)。しかもこの2階の表西側の部屋こそ、龍馬が船中八策をまとめた部屋だという。家の者からは「才谷さん」と呼ばれていたそうだ。そして11月15日、近江屋で龍馬が斬られた直後、海援隊の隊士たちが急ぎ集まったのも、この2階の一室だったという。
あの階段を上がった先が、その部屋なのかと思うと、700円は安い。

「酢屋」は享保6年(1721)から300年あまり続く店の屋号で、当時の6代目嘉兵衛が龍馬を匿い、その子孫の10代目が現在も看板を継いでいる。鳥肌が立った。この日見てきた場所は、全部が別のものに変わっていた。その中で酢屋だけが、場所も商売も家も、変わらずに続いている。
もらった資料を読んで、なぜ龍馬がここにいたのかが腑に落ちた。当時の6代目嘉兵衛は材木業のかたわら、角倉家から高瀬川の木材独占輸送権を得て運送業も握っていた。そして当時、この家の前は高瀬川の大きな舟入——船着き場だったのだという。高瀬川沿いには各藩の藩邸が建ち並び、伏見や大阪との連絡にも都合がいい。物流と情報が集まる場所に、材木商の顔で出入りできる。だから龍馬はここに身を寄せた。

さっき瑞泉寺で、高瀬川を掘ったら秀次一族の墓が出てきた話を読んだばかりだった。同じ川が、こちらでは龍馬をここへ引き寄せている。

お店の方に聞いた話がふたつ、印象に残っている。ひとつは、毎年11月15日——龍馬の誕生日であり命日——に、社長さん主催で龍馬を偲ぶ会をやっていて、毎年200人ほど集まるということ。もうひとつは、外国人観光客のこと。「金閣寺や清水寺は地図アプリで紹介されるけれど、池田屋や酢屋は載らない。坂本龍馬を知らない外国の方も多い」。だから酢屋は1階でお箸や木の器を売って、まず手に取ってもらうことから始めているそうだ。
酢屋と京都観光Naviの告知によると、2026年は11月15日(日)の11時から、店の前に祭壇を設けて献杯する「酢屋龍馬祭」がある(参加無料)。11月12日(木)から16日(月)までは2階で「龍馬追悼展」が開かれ、龍馬の遺品と、海援隊と酢屋の文書が並ぶ。時間は11時半から17時半、一般900円(中学生・小学生は無料)。8月の700円は、追悼展のない時期の料金である。

たしかにこの日、河原町は訪日客であふれていたのに、池田屋の碑に足を止める人はほとんど見なかった。
近江屋跡 — 龍馬・中岡慎太郎遭難之地は、河原町通の歩道に
河原町通に戻って南へ。蛸薬師通を過ぎたあたりの歩道に、その碑はある。


碑の後ろはカラオケ店である。土地の履歴を調べると、旅行会社、コンビニ、回転寿司ときて、2024年からカラオケ店になった。街の人が手を入れていることは、ちゃんと分かる。
それでも——もう少し丁重に扱ってほしい、と思ってしまった。池田屋は事件の名前を看板に掲げている。ここは、外から見る限り、店名の一部に「近江屋店」とあるだけだ。東京の平将門の首塚のように、一等地でも場所そのものが守られている例を知っているだけに、余計にそう感じたのかもしれない。
あとで運営会社の2024年8月23日の発表を読むと、店内には近江屋をイメージした部屋がひとつあり、襲撃の場面を再現して、刀と、実際に飾られていた掛け軸の複製を置いているという。外からは見えない。

近江屋から95メートル、徒歩1分ほどの抹茶屋さんの前に、中岡慎太郎寓居地の碑もあった。遭難した場所と住んでいた場所が、歩いて1分である。

「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」。慶応3年(1867)11月15日の夜、龍馬はここにあった醤油商・近江屋の2階で襲撃され、その場で絶命した。33歳。駆けつけていた中岡慎太郎は二日後に亡くなる。30歳。王政復古の大号令の、1か月前のことだ。
碑の四面の刻字は、現地では確かめきれなかった。あとで京都市のいしぶみデータベースを引くと、面ごとの記録がある。北面は「寄贈者 旧井口新助氏宅 井口新之助 水島善太郎」。「旧井口新助氏宅」——昭和2年にこの碑を建てたとき、寄贈者の住まいがかつての井口新助の家だったことを、碑自身が刻んでいる。ここが近江屋だったことにつながる、いちばん確かな手がかりがこの一行だと思う。
碑の刻字の記録と、京都市の説明板が書いていることは「近江屋跡(坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地)」のページにまとめてある。
六条河原 — 何も、なかった
最後に、鴨川沿いを五条大橋のさらに南へ歩いた。六条河原。平安末期から江戸初期にかけて、処刑と晒しの場になったと伝わる河原だ。石田三成も、小西行長も、長宗我部盛親も、ここで最期を迎えたとされる。

五条大橋を越えても、100メートルほどは店が続く。だが、そこで途切れた。

処刑場跡とされるあたりには、何もなかった。




ここで何があったとされるのか、その年表と出典は「六条河原(処刑・晒しの場とされた鴨川の河原)」のページにまとめてある。
あとで京都市のいしぶみデータベースを引くと、対岸(東山区)の川端通沿い、正面通の少し北に「元和キリシタン殉教の地」の石標が記録されていた。元和5年(1619)に52人のキリシタンが六条河原で火あぶりの刑により最期を遂げたことを伝え、この石標は殉教の跡である六条河原を示すものだ、と説明されている。この日は西岸だけを歩いたので、この石標は見ていない。
この日見てきた場所を並べてみる。蛤御門には弾傷らしき凹みが残っていた。相国寺には墓があった。池田屋には碑と看板があった。近江屋には碑と花があった。そして私が歩いた六条河原の西岸には、何もなかった。土地の記憶の残り方の、いちばん端がここだった。
帰りに、六条河原の刑場にあったと伝わる「駒止地蔵」が移された蓮光寺に寄った。18時21分。門は閉まっていた。

門前の説明板だけ読む。
駒止地蔵は弘法大師(空海)の作といわれ、もとは六条河原の処刑場に祀られていたと伝えられる。鴨川の氾濫で埋もれていたが、平清盛が乗る駒(馬)が六条河原に差し掛かったとき、急に馬が動かなくなり、その場所を掘ってみると、この地蔵が出てきたことからその名が付いたという。

鴨川の氾濫で埋もれ、掘り出されて、いまは川から離れた寺にある。瑞泉寺の説明板も、荒れた塚の墓石を掘り出したところから寺の由来を語っていた。ただ、地蔵がいつこの寺へ移ったのかまでは、説明板には書かれていない。
説明板は「境内には、関ヶ原の合戦や大坂夏の陣で活躍した武将、長曽我部盛親の墓がある」と続く。門の脇にも、その名を刻んだ石標が立っていた。六条河原で最期を迎えたとされる一人が、ここに眠っている。

歩いた順と時刻
時刻はこの日に撮った写真の記録から。蛤御門と薩摩藩邸跡の間では、ほかの場所にも寄っている。
- 蛤御門(14時18分ごろ)— 丸太町駅近くのパーキングから歩く。
- 薩摩藩邸跡(15時ごろ)— 同志社大学の西門前。
- 相国寺(15時10分〜15時30分ごろ)— 本山墓地に長州藩士の墓。特別拝観は2026年が春期3月25日〜6月2日、秋期9月26日〜12月15日。
- 地下鉄で河原町へ — 今出川駅から乗って、京都市役所前駅の2番出口へ(16時ごろ)。出口のすぐ隣に池田屋事件の石標。
- 池田屋騒動之址(16時18分)— 碑の後ろは居酒屋。7月15日は商店街の供養の日。
- 瑞泉寺・酢屋(16時30分ごろ)— 木屋町通。酢屋の2階は700円(2026年8月時点)。
- 近江屋跡(17時ごろ)— 河原町通の歩道。徒歩1分で中岡慎太郎寓居之地。
- 四条大橋から鴨川沿いを南へ、六条河原(17時30分〜18時ごろ)
- 蓮光寺(18時21分)— 門は閉まっていた。

行きの道で — 亀山の鈴鹿駅跡
朝、京都へ向かう道中で、ひとつ拾いものをしていた。

亀山市関町古厩(ふるまや)。名阪国道のそばの集落で、「鈴鹿駅跡」という史跡標柱を見つけた。

説明板によると、ここは大化の改新のころに置かれた古代の駅(うまや)の跡と伝わる。駅というのは、街道を行き来する役人のために馬を乗り継がせた国家の施設だ。「古厩」という集落の名前そのものが、その記憶だという。
目印とされてきた「御厩の松」は、三代にわたって植え継がれていた。先々代は高さ15メートル、幹回り6メートルの巨木で、県の天然記念物。マツクイムシにやられて昭和57年に伐採された。二代目も平成27年に同じ虫で伐採。いまは令和5年1月に植えたばかりの三代目が、支柱に支えられて立っている。2代続けて同じ虫に枯らされて、それでも植える。
ひとつ気になったことがある。現地には説明板が2枚あって、木製の古い板(亀山市教育委員会・平成3年)は先々代の樹齢を「四〇七年」、金属製の新しい板(亀山市・令和5年)は「四七〇年」と書いている。407と470。数字が入れ替わっている。どちらが正しいのかは、この場では分からない。


古代の駅の跡を見てから東海道を京都へ走る。いま思えば、この日はずっと「道」の上にいた。
歩き終えて
小学校の修学旅行で、この河原町に来たはずである。当時は全く興味がなかった。何も見えていなかったのだと思う。

今回は違った。蛤御門の凹みが160年前の戦闘に結びついて見え、同志社の校舎が薩摩藩邸に見え、居酒屋の前の碑が事件現場に見えた。場所は何ひとつ変わっていない。変わったのは、こちらの頭の中だけだ。
池田屋から近江屋までは428メートル、歩いて5分。蛤御門までは約2キロ。この2キロ圏内で起きたことが、日本の進路を決めた。そしてその現場は、いま大学とホテルと居酒屋とカラオケ店と、何もない河原になっている。

知らずに歩けば、ただの繁華街である。知って歩くと、こんなに面白い街もない。
この日歩いた場所のうち、薩摩藩邸跡・蛤御門・池田屋・近江屋の4か所だけを取り出して、何が残り、何が失われたかで並べ直した記事が幕末の京都で、なぜこの4か所なのかにある。
この土地に、何があったか。→ 痕跡マップで調べる
この記事の場所のそばにある痕跡
- 岡崎(第4回内国勧業博覧会の跡地と平安神宮)(池田屋事件の跡 から 地の痕跡・約1.4km)
- 六波羅探題跡・平氏六波羅第(池田屋事件の跡 から 戦の痕跡・約1.4km)
- 本能寺跡(本能寺の変の舞台・現在の寺町御池とは別の旧地)(池田屋事件の跡 から 戦の痕跡・約1.4km)
- 蹴上インクライン(琵琶湖疏水)(池田屋事件の跡 から 水の痕跡・約1.8km)
池田屋事件の跡の周りに、ほかに何が残っているか。
池田屋事件の跡のまわりをひらく →参考・出典
19件出典に基づいて掲載している
- 御苑案内図(蛤御門)|京都御苑|国民公園|環境省
env.go.jp - NA011 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地
www2.city.kyoto.lg.jp - NA033 池田屋騒動址
www2.city.kyoto.lg.jp - NA174 山本覚馬・八重宅跡
www2.city.kyoto.lg.jp - KA006 薩摩藩邸跡
www2.city.kyoto.lg.jp - 相国寺 | 臨済宗相国寺派
shokoku-ji.jp - 創作木工芸 酢屋|ギャラリー龍馬
kyoto-suya.co.jp - 創作木工芸 酢屋 オンラインショップ
kyotosuya.thebase.in - 龍馬追悼展【酢屋】|【京都市公式】京都観光Navi
ja.kyoto.travel - 秀次公と瑞泉寺 - 京都・慈舟山瑞泉寺
zuisenji-temple.net - 幕末の瑞泉寺|岩瀬忠震と橋本左内の会談の地 - 京都・慈舟山瑞泉寺
zuisenji-temple.net - 拝観とアクセス - 京都・慈舟山瑞泉寺
zuisenji-temple.net - よくある質問 - 京都・慈舟山瑞泉寺
zuisenji-temple.net - 瑞泉寺|【京都市公式】京都観光Navi
ja.kyoto.travel - HI055 元和キリシタン殉教の地
www2.city.kyoto.lg.jp - 京都河原町近江屋店 | ジャンカラ
jankara.ne.jp - 坂本龍馬終焉の地にジャンカラが誕生!『ジャンカラ京都河原町近江屋店』本日グランドオープン! | 株式会社TOAIのプレスリリース
prtimes.jp - 京都御苑・同志社大学前・瑞泉寺・近江屋跡・蓮光寺の各現地説明板と、相国寺門前の特別拝観の掲示(2026-08-22 撮影確認)
- 酢屋で受け取った案内(十代目 酢屋嘉兵衛・2026-08-22 受領)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :写真が既に見せていることを言葉で説明していた段落を削り、同日に撮った写真を足した(本文約6,200字・写真25枚から、約5,800字・写真52枚へ)。由緒・出典・現地で聞いた話・掲示の引用は変えていない。
- :本文の説明の文を4か所、削るか短く改めた。年代・出典・引用の内容は変えていない。
- :見出しを行き方・見られるもの・時期から組み直し、由緒の段落を各節の後ろへ移した。相国寺の特別拝観の期間(門前の掲示と公式サイト)、瑞泉寺の「境内拝観随意」の掲示、蓮光寺の説明板の引用と長曽我部盛親の墓所の石標、歩いた順と時刻を書き足し、出典に相国寺の公式サイトと相国寺・蓮光寺の現地掲示を加えた。同じ写真が2枚ずつ載っていた2か所を1枚にした。また、六条河原の対岸に京都市が記録する殉教の石標を書き足し、「六条河原には、何もない」を歩いた西岸の話に限り、蓮光寺の段落の「瑞泉寺と同じ形だった」を改めた。出典に京都市の石碑の記録を加えた。
- :河原町三条の交差点の写真の説明で池田屋の碑の方角を「西」としていたのを「東」に、吉田稔麿の石標から池田屋までを「400メートルほど」としていたのを「200メートルほど」に改めた(京都市の石碑の記録と撮影した位置で確認)。酢屋について「その建物が、いまもそのまま建っている」と書いていたのを、店の説明が言う範囲(同じ場所で続いていること、2階の部屋に当時の地棟や梁が残ること、出格子が当時の面影を残すこと)に改めた。
- :2026年の酢屋龍馬祭と龍馬追悼展の日程・時間・料金を書き足し、酢屋の店先の写真の説明を、通りから撮ったものと分かる書き方に改めた。出典に酢屋の公式サイトとオンラインショップの告知、京都観光Navi、酢屋で受け取った案内を加えた。また、瑞泉寺の由来に寺の公式サイトとの言い方の違いを書き足し、「39人の墓が出てきた」を「39人を葬った塚の墓石が出てきた」に改めた。岩瀬忠震の宿所と橋本左内の訪問、門前の石標の写真、拝観の時間を加え、出典に瑞泉寺の公式サイトを加えた。
- :近江屋跡の段落で「店名の一部に『近江屋店』とあるだけだ」を「外から見る限り」の話に限り、店内に近江屋をイメージして襲撃の場面を再現した部屋があることを書き足した。出典に運営会社の2024年8月23日の発表と店の案内を加えた。
- :9月28日の訂正が本文にとどまり、冒頭の説明文に旧の記述(「そして何も残っていない六条河原」)が残っていたため、同じ内容に改めた。何もなかったのは歩いた西岸のことで、対岸には京都市が記録する殉教の石標がある。
この記事について
この記事の場所や話について、知っていることを教えてください。