🗺 痕跡マップをひらく
歴史の痕跡

大政奉還はどこで行われたか — 二条城の大広間と、京都から消えた藩邸の跡

京都の二条城、二の丸御殿の大広間で、慶応3年10月14日(いまの暦で1867年11月9日)に表明された。前日には同じ大広間に在京40藩の重臣が集められている。二の丸御殿は国宝として残る一方、土佐・加賀・長州などの藩邸は京都から消え、跡には石標が立つ。

2026-09-15 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(8項目)

大政奉還が表明された場所は、京都の二条城である。建物は二の丸御殿、部屋は大広間。日付は慶応3年10月14日で、いまの暦に直すと1867年11月9日にあたる。

その前日、同じ大広間に集められていたのは、京都に滞在していた40藩の重臣だった。40の藩が、京都に屋敷を構えていたということでもある。その屋敷の跡に、いま立っているのは石標である。

慶応3年10月14日は、いまの暦の11月9日

京都市の元離宮二条城公式サイトは、大政奉還をこう説明している。

1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌15日に朝廷が許可し、江戸幕府の幕は降ろされました。

ここに出てくる10月14日は、当時の暦(太陰太陽暦)の日付である。国立天文台暦計算室の日本の暦日データベースで換算すると、慶応3年10月14日はグレゴリオ暦の1867年11月9日にあたる。

当時の暦いまの暦出来事日付の出典
慶応3年10月13日1867年11月8日二の丸御殿大広間で40藩の重臣に意見を聞く元離宮二条城
慶応3年10月14日1867年11月9日慶喜が政権の返上を申し出る元離宮二条城
慶応3年10月15日1867年11月10日朝廷が許可する元離宮二条城
慶応3年11月15日1867年12月10日近江屋で坂本龍馬・中岡慎太郎が襲われる京都市いしぶみデータベース
慶応3年12月9日1868年1月3日王政復古の大号令国際子ども図書館(国立国会図書館)
明治4年7月14日1871年8月29日廃藩置県の詔国立公文書館

左の列が当時の暦の日付、右の列がそれを暦日データベースで換算した日付である。王政復古の大号令について、国際子ども図書館の解説は「1867年12月9日」と表記している。同じ解説が大政奉還を「1867年10月14日」と書いていることから、ここでは慶応3年12月9日として換算した。

いまの暦に並べ直すと、大政奉還から王政復古までは55日、廃藩置県まではおよそ3年9か月になる。

大政奉還をめぐる和暦の日付と、いまの暦の日付を並べた対照表の図。出典もあわせて示している
大政奉還をめぐる和暦の日付と、いまの暦の日付を並べた対照表の図。出典もあわせて示している

場所は二の丸御殿の大広間

二条城公式サイトの二の丸御殿のページは、大広間一の間・二の間の写真に「大政奉還が表明された大広間 二の間から一の間を見る」と説明を添えている。部屋そのものの用途はこう書かれている。

将軍と大名や公卿衆との公式の対面所です。大広間の主室であり、一の間(上段の間)、二の間(下段の間)からなります。

同じページによれば、二の丸御殿は全6棟からなり、「江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として国宝に指定されました」とある。この記事に出てくる場所のなかで、建物がそのまま残っているのはここだけになる。

二条城の年表のほうは、慶応3年の欄をひと言で済ませている。

10月、慶喜が二の丸御殿で大政奉還の意思を表明した。

前の日、その部屋に40藩の重臣がいた

公式サイトの歴史のページは、前日の様子にも触れている。

10月13日、二条城二の丸御殿大広間に、在京していた40藩の重臣を集めて意見を聞き、翌々日、大政奉還が成立したことで、一旦は討幕の動きは弱まりましたが、やがて江戸無血開城へと至りました。

40藩の重臣が在京していた。当時の京都には、それだけの藩の屋敷があったことになる。

大政奉還を慶喜に建白したのは土佐藩だった。京都市歴史資料館のいしぶみデータベースは、土佐藩邸跡の石標をこう解説する。

この地には江戸初期から明治4(1871)年まで土佐藩主山内家の藩邸があった。

文久3(1863)年8月18日の政変以後は尊王攘夷を弾圧したが,坂本龍馬(1836〜67)等の尽力で薩長同盟が成立し,後藤象二郎(1838〜97)の進言を入れて大政奉還を建白するに至った。

建白した側の屋敷も、諮問を受けた側が集まった城も、同じ京都の市街地にあった。

木屋町通の高瀬川沿いに立つ石標「髙瀬川」
木屋町通の高瀬川沿いに立つ石標「髙瀬川」

藩邸跡の石標は、いまどこに立っているか

京都市歴史資料館のいしぶみデータベースは、市内の石標について所在地・建立年・建立者・碑文を記録している。藩の屋敷跡を示す石標はこのほかにもあるが、幕末に名前の出る藩のものを抜き出すと次のようになる。

石標の名称所在地建立年・建立者
薩摩屋敷址中京区東洞院通錦小路下る東側1933年・京都市教育会
薩摩藩邸跡上京区烏丸通今出川上る東側(同志社大学西門前)1968年・京都市
水戸藩邸跡上京区下長者町通烏丸西入北側1968年・京都市
長州屋敷址中京区御池通河原町東入(京都ホテルオークラ前)1938年・京都市教育会
加賀藩邸跡中京区木屋町通御池西南角1968年・京都市
彦根藩邸跡中京区木屋町通三条下る二筋目(山崎橋西詰)1968年・京都市
土佐藩邸跡中京区木屋町通蛸薬師西南角1968年・京都市
藤堂藩藩邸跡中京区東堀川通蛸薬師下る東側(堀川高校正門前)1968年・京都市
若狭小浜藩邸跡中京区西ノ京池ノ内町2002年・小浜市(現地での聞き取りによる)
越前藩京屋敷所在不明(中京区油小路通二条下る西側カ)記載なし
京都守護職屋敷址上京区下立売通釜座上る(京都府庁内)1932年・京都市教育会
同志社大学の西門前に立つ「薩摩藩邸跡」の石標。昭和43年に京都市が建てたもの
同志社大学の西門前に立つ「薩摩藩邸跡」の石標。昭和43年に京都市が建てたもの

薩摩藩の石標は二つある。いしぶみデータベースによれば、錦小路の屋敷が「おそくとも宝暦年間(1751〜64)にはこの地に移転した」本邸で、敷地は1500坪以上あった。もう一つが文久3年に相国寺近くの二本松へ設けられた新しい屋敷で、石標の位置と土地の来歴は「薩摩藩邸跡(二本松屋敷・同志社大学西門前の石標)」のページにまとめてある。二つの石標のあいだは、公表されている座標で計算すると約2.8キロある。

同志社大学が立てた説明板「京・薩摩藩邸(二本松屋敷)」
同志社大学が立てた説明板「京・薩摩藩邸(二本松屋敷)」

表の一番下の京都守護職屋敷址だけは、藩邸ではなく幕府の役所の跡である。いしぶみデータベースの解説は次のとおり。

京都守護職は,文久2(1862)年,京都の治安維持のために設立された幕府の役職で,会津藩主松平容保が就任した。京都所司代・京都町奉行などの上位に位置づけられた。その役宅は,はじめ黒谷金戒光明寺内に置かれたが,文久3年末この地に新築された。慶応3(1867)年12月に廃止され,その跡地には京都府庁が移転した。

最初に役宅が置かれた黒谷金戒光明寺の公式サイトは、会津藩がここに入った経緯を詳しく残している。藩主松平容保が家臣一千名を率いて三条大橋に着いたのは「文久二年十二月二十四日午前九時頃」で、「本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした會津正規兵の行軍が一里余りも続いた」という。本陣に選ばれた理由として、城構えであること、御所まで約2キロという位置、大小五十二の宿坊で一千名が駐屯できることの三点が挙げられている。

京都に残る藩邸跡の石標十一件の位置と所在地を、御所と二条城を目印に示した図
京都に残る藩邸跡の石標十一件の位置と所在地を、御所と二条城を目印に示した図

木屋町通の556メートル

表の所在地を地図の上に置き直すと、加賀・彦根・土佐の三つが木屋町通に沿って南北に並び、その北に長州の石標が続く。いしぶみデータベースが公表している緯度経度から直線距離を計算すると、土佐藩邸跡から彦根藩邸跡まで約87メートル、彦根から加賀まで約398メートル、加賀から長州まで約114メートル。土佐藩邸跡から長州屋敷址までは約556メートルになる。

木屋町通は高瀬川に沿った通りである。加賀・彦根・土佐の三つの石標は、その通り沿いに立っている。

この四つのうち、長州の項目だけが、屋敷がどう無くなったかまで書き残している。

長州藩邸は幕末には尊王攘夷運動の拠点となり,元治元(1864)年禁門の変で焼失した。鳥羽伏見戦(1868)の後,その焼け跡は征東に赴く長州兵の調練場となった。

相国寺の墓地に立つ「禁門変長州藩殉難者墓所」の石標
相国寺の墓地に立つ「禁門変長州藩殉難者墓所」の石標

同じ火で消えた藩邸がもう一つある。堀川高校正門前に立つ藤堂藩藩邸跡の解説は「元治元(1864)年,禁門の変による火災でこの藩邸は焼失した」と記録する。禁門の変の現場となった門は、いまも京都御苑の西側に建っている。門と、そこに残る窪みについては「蛤御門の弾痕と伝わる跡(禁門の変の最大の激戦地)」のページに整理してある。

藩邸が消えるまで

火事で焼けた屋敷がある一方で、大政奉還のあとも残った屋敷がある。彦根藩邸跡の解説は、井伊家について「変後10万石を削られるが廃藩置県まで存続した」と書く。土佐藩邸跡の解説は「江戸初期から明治4(1871)年まで」とする。

藩そのものが無くなるまでの順番は、国立公文書館の展示解説に整理されている。まず明治2年(1869)1月、薩摩・長州・肥前・土佐の各藩主が版籍奉還を願い出て、他の藩主もそれに倣った。そして明治4年である。

明治4年(1871)7月14日、廃藩置県の詔が発せられました。藩知事は全て罷免されて東京に居住することが命じられました。藩知事に代わり、政府が任命する府知事・県知事(のち県令)が各府県の行政を行うこととなりました。藩は全て県となり、日本全国で、3府302県となりました。

藩が県になった年は、土佐藩邸跡の解説にある「明治4(1871)年まで」と同じ年である。ただし、それぞれの藩邸がいつ、誰の手に渡り、いつ取り壊されたのかという個別の年月は、いしぶみデータベースの各項目には記載がない。

ここで引いた項目のなかで、土地のその後まで書いているのは加賀藩邸跡である。

藩邸は明治維新後は上地され,一時は府知事邸となっていたが,太平洋戦争末期に建物疎開で御池通の一部となった。

藩邸の敷地が、府知事の住まいを経て、道路の幅になった。建物疎開は、空襲による延焼を防ぐために建物を壊して空地を作ったもので、その跡が道路として残った例は大阪にもある(「疎開道路(生野区・建物疎開の名残)」)。

加賀藩邸跡の敷地が、藩邸から府知事邸を経て御池通の一部になった順番を示した図
加賀藩邸跡の敷地が、藩邸から府知事邸を経て御池通の一部になった順番を示した図

石標のほうが先に分からなくなった項目もある。越前藩京屋敷は、所在地の欄が「所在不明(中京区油小路通二条下る西側カ)」となっていて、解説はこう結ばれている。

越前藩邸の跡を示す石標が建てられていたが,現在は確認できない。

屋敷の跡を示す目印も、その目印が立っていた場所も、いまは確かめられない。この項目の調査日は2002年である。

大広間のある御殿は、そのあと府庁になった

二条城の年表は、大政奉還の次の行から明治に入る。以下は年表の記述をそのまま並べたものである。

年年表の記述
1868年(明治元年)1月、城内に太政官代を置く (現在の内閣にあたる)。
1871年(明治4年)二の丸御殿内に府庁を置く(のち一時陸軍省になる)。
1884年(明治17年)皇室の別邸 「二条離宮」となる。
1939年(昭和14年)宮内省が二条離宮を京都市に下賜。
1940年(昭和15年)2月11日恩賜元離宮二条城として 一般公開をはじめる。
1952年(昭和27年)文化財保護法の制定により、二の丸御殿6棟が国宝に、東大手門など22棟の建物が重要文化財に指定される。

廃藩置県と同じ明治4年、大政奉還が表明された大広間のある御殿には、京都府の庁舎が入っている。その府庁は、のちに京都守護職屋敷の跡地へ移った。守護職の役宅は、いしぶみデータベースによれば大政奉還の2か月後、慶応3年12月に廃止されている。廃止された役所の跡地に、新しい役所が移ってきたことになる。

大政奉還から1か月後にあたる慶応3年11月15日の夜、河原町通の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われた。いまの暦では1867年12月10日。その石標の刻字と現況は「近江屋跡(坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地)」のページにある。

河原町通に立つ「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」の石碑
河原町通に立つ「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」の石碑

資料で確かめられたのはここまで

幕末の京都に残る四つの地点を、残り方の違いで並べ直した記事が「幕末の京都で、なぜこの4か所なのか」にある。


この土地に、何があったか。→ 痕跡マップで調べる

この記事の場所のそばにある痕跡

薩摩藩邸跡の周りに、ほかに何が残っているか。

薩摩藩邸跡のまわりをひらく →

参考・出典

20件出典に基づいて掲載している

この記事について

この記事の場所や話について、知っていることを教えてください。

本ページの位置情報・年代・経緯は概略です。掲載内容の確からしさは、ページ内の根拠ラベル(資料確認済み・資料候補・伝承・噂)の区分をご確認ください。 私有地への立ち入りを目的とした利用はご遠慮ください。誤りのご指摘・削除依頼は運営までご連絡ください。