高瀬川 一之船入(慶長期の運河に唯一残る船溜まりの堀割)|何があった場所か
角倉了以・素庵父子が慶長16年に着工し19年に完成させた運河が高瀬川で、幕末開削の西高瀬川とは別の川。荷の積み下ろしと舟の方向転換に使う船入のうち、堀割が今も水をたたえるのはこの一之船入だけとされる。大正9年に舟運は廃され、国の史跡となった。
時のながれ
- 慶長16年(1611) — 角倉了以とその子素庵が、高瀬川の開削工事に着手した。
- 慶長19年(1614) — 高瀬川が完成した。二条大橋西畔で鴨川から水を引き、伏見を経て宇治川へ注ぐ延長約10キロメートルの運河であった。
- 宝永7年(1710)頃 — 伏見と二条の間に就航した高瀬舟は188艘を数えたという。上り舟は満載で15石を積んだ。
- 大正9年(1920) — 鉄道の開通などで役割を終え、高瀬川の舟運が廃止された。
- 昭和9年(1934) — 1月22日付で、一之船入が史蹟名勝天然紀念物保存法による史蹟に指定された。翌昭和10年10月には、京都市が史蹟の石標を建てた。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 国の史跡としての指定年月日が昭和9年1月22日であること、所在地が中京区木屋町通二条下ル西側一之船入町であることは、文化庁の文化遺産オンラインで確認した。
- 高瀬川が角倉了以・素庵父子により慶長16年に着工され慶長19年に完成したことと、大正9年に舟運が廃止されたことは、京都市建設局土木管理部河川整備課のページで確認した。
- 江戸時代はじめの高瀬川が二条大橋西畔で鴨川から取水し、伏見を経て宇治川へ注ぐ延長約10キロメートルの運河であったこと、船入のうち現在残るのが一之船入だけであることは、京都市歴史資料館のフィールド・ミュージアム京都で確認した。
- 史蹟の石標が昭和10年10月に京都市の手で建てられたことと、その位置座標は、京都市いしぶみデータベースで確認した。碑文には昭和九年一月文部大臣指定と刻まれている。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、京都市のいしぶみデータベースが示す史蹟石標の位置(北緯35度00分44.1秒/東経135度46分13.4秒、世界測地系)に基づく代表点である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 宝永7年ころに伏見と二条の間で188艘の高瀬舟が就航していたという数値は、京都市歴史資料館の解説では示されるものの、別系統の資料までは到達できなかった。
- 船入の数について、京都市いしぶみデータベースは二条から四条の間に9か所とする。京都市歴史資料館のフィールド・ミュージアム京都は、開かれた当初は7か所、17世紀末に9か所へ増え、18世紀中ごろに再び7か所へ減ったとする。京都府観光連盟の公式サイトは二条から五条にかけて7つとしている。
- 所在地の町名について、文化庁の文化遺産オンラインは中京区木屋町通二条下ル西側一之船入町とし、京都市公式の京都観光Naviは木屋町通二条下る上樵木町としている。
- 開削年について、京都市建設局は慶長16年着工・慶長19年完成とし、京都市歴史資料館は慶長19年に開かれたとする。京都観光Naviは慶長16年頃と記す。
参考・出典
- 高瀬川一之船入
文化庁 文化遺産オンライン(国指定文化財データベース) - 都市史22 高瀬川
京都市歴史資料館 フィールド・ミュージアム京都(京都市公式) - NA124 高瀬川一之船入
京都市 いしぶみデータベース(京都市歴史資料館) - 高瀬川再生プロジェクト
京都市 建設局土木管理部河川整備課(京都市公式) - 高瀬川一之船入
京都観光Navi(京都市公式) - 高瀬川(一之船入跡) スポット一覧
京都府観光連盟 公式サイト
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
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