近江屋跡(坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地)|何があった場所か

慶応3年(1867)11月15日の夜、醤油商の近江屋にいた坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われた場所。建物は残らず、河原町通蛸薬師下る西側の歩道に、昭和2年(1927)に京都市教育会が建てた「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」の石標と、京都市の説明板が立つ。碑の前には花が供えられている。
時のながれ
- 慶応3年(1867)10月14日 — 大政奉還が行われた。
- 慶応3年(1867)11月15日 — 夕刻に中岡慎太郎が近江屋を訪ね、夜になって襲撃を受けた。坂本龍馬はその場で絶命し、中岡も二日後に亡くなった。ともに遭難した山田藤吉も命を落としている。
- 慶応3年(1867)12月9日 — 王政復古の大号令が出された。遭難の一カ月後にあたる。
- 昭和2年(1927)6月 — 京都市教育会が「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」の石標を建てた。北面には寄贈者の名が刻まれている。
- 平成14年(2002)2月4日 — 京都市が石標を調査し、所在地・寸法・碑文・位置座標を記録した。
- 現在 — 近江屋の建物は残らず、河原町通に面した歩道に石標と京都市の説明板が立つ。碑の前には花が供えられている。
現地の写真


編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 石標の名称・所在地・寸法・建立の記録は、京都市のいしぶみデータベース(NA011 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地)で確認した。所在地は中京区河原町通蛸薬師下る西側、建立年は1927年、建立者は京都市教育会、寸法は高130×幅18×奥行18cm。
- 同じ資料は碑文を面ごとに記録している。東面が「坂本龍馬 遭難之地 中岡慎太郎」、南面が「昭和二年六月建之 京都市教育会」、北面が「寄贈者 旧井口新助氏宅 井口新之助 水島善太郎」である。
- 同じ資料は、慶応3年(1867)11月15日夜にこの地の近江屋を襲った刺客により、海援隊長の坂本龍馬と陸援隊長の中岡慎太郎が暗殺されたこと、二人とも土佐藩の出身で薩長連合の功労者であったこと、この石標が両人が暗殺された近江屋の跡を示すものであることを記す。
- 石標の位置は、京都市が世界測地系で北緯35度00分19.0秒/東経135度46分09.8秒として公表している。
- 河原町通に面した歩道に「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と刻んだ石標が立ち、花が供えられていることを現地で確認した(2026-08-22 撮影)。
- 石標の後ろに京都市の名で説明板「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」が掲げられている。日本語のほかに英語・中国語・韓国語が併記されている(2026-08-22 撮影)。
- 同じ説明板は、この地が慶応三年(一八六七)十一月十五日に、土佐藩海援隊長の坂本龍馬(一八三五〜一八六七)が、盟友である陸援隊長の中岡慎太郎(一八三八〜一八六七)とともに刺客に暗殺された近江屋(醤油商)のあった所であると記す(2026-08-22 撮影)。
- 同じ説明板は、龍馬が海援隊の本部があった酢屋(材木商)に下宿していたが、前年の寺田屋事件により幕府から狙われていたため、土佐藩の出入商人であった近江屋に移っていたと記す(2026-08-22 撮影)。
- 同じ説明板は、十一月十五日の夕刻に中岡が近江屋を訪ね、大政奉還後の政局について論じていたが、夜になり、十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けたと記す(2026-08-22 撮影)。
- 同じ説明板は、龍馬がその場で絶命し、中岡も二日後にこの世を去ったこと、龍馬三十三歳・中岡三十歳であったこと、大政奉還(十月十四日)が行われた一カ月後、王政復古の大号令(十二月九日)が出る一カ月前の出来事であったことを記す(2026-08-22 撮影)。
- 同じ説明板は、龍馬と中岡が、ともに遭難した山田藤吉と現在の京都霊山護国神社に埋葬されていると記す(2026-08-22 撮影)。
- 石標のとなりに木の柱が立ち、「寄贈 河原町商店街振興組合」とある。柱は上の説明板を支えている(2026-08-22 撮影)。
- 碑のそばに河原町商店街振興組合の掲示があり、坂本龍馬と中岡慎太郎の肖像と、商店街のビジョン「河原町ぶらり宣言」が並べて掲げられている(2026-08-22 撮影)。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、京都市がこの石標について公表している位置で、歩道に立つ碑そのものを指す。近江屋の建物の範囲を示すものではない。
- 近江屋の建物は残っていない。碑の建つ歩道の後ろは現在の店舗で、写真は石標・説明板・商店街の掲示までとし、店の看板や品書きが主になるものは外した。
- ここは人が命を落とした場所である。碑には花が供えられており、静かに手を合わせる場所として案内している。歩道は人通りの多い場所なので、立ち止まる位置に気をつけてほしい。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 襲撃した者が誰であったかは特定されていない。現地の説明板は「十津川郷士と称する男たち」と記し、京都市のいしぶみデータベースは「刺客」とだけ記す。
- 石標の各面のうち、現地で撮影できたのは刻字のある正面だけで、建立年や寄贈者を刻む面は写っていない。面ごとの刻字は京都市のいしぶみデータベースの記録による(2026-08-22 撮影)。
- 井口新助が近江屋の当主であったことを示す自治体などの公的資料には到達できなかった。京都市のいしぶみデータベースが記録しているのは、石標の北面に寄贈者として「旧井口新助氏宅 井口新之助」「水島善太郎」と刻まれていることまでである。
- 「寄贈 河原町商店街振興組合」と記された木の柱が、石標と説明板のどちらについてのものかは、柱の文字だけからは分からない(2026-08-22 撮影)。
- 近江屋の建物がいつまで残り、いつ失われたかを示す一次資料には到達できなかった。
- 坂本龍馬の生年が資料で食い違う。京都市のいしぶみデータベースは1836年生まれとし、現地の説明板は一八三五年生まれと記す。
参考・出典
- NA011 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地(いしぶみデータベース)
京都市(フィールド・ミュージアム京都・公式) - 現地説明板「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」
京都市(河原町通の現地掲示。2026-08-22 撮影確認) - 現地の石標「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」
京都市教育会(昭和2年6月建立。2026-08-22 撮影確認) - 現地掲示「河原町ぶらり宣言」
河原町商店街振興組合(跡地の現地掲示。2026-08-22 撮影確認)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
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