歴史の痕跡
幕末の京都で、なぜこの4か所なのか — 藩邸・門・宿・近江屋を結ぶ
幕末の京都には、藩邸跡も、戦いの跡も、志士ゆかりの碑も数多くある。その中から、なぜ薩摩藩邸跡、蛤御門、池田屋騒動址、近江屋跡の4か所を結ぶのか。
有名な人物を四人選んだわけではない。4地点に残るものの役割が、一つずつ違うからだ。政治を動かす藩の拠点、武力衝突の舞台になった門、旅宿で起きた襲撃、商家で起きた襲撃の跡。北から南へ歩くと、幕末の出来事が寺社や御所の中だけでなく、大学の門前や繁華街の歩道にも残っていることが見えてくる。
① 薩摩藩邸跡 — 政治の拠点
出発点は、現在の同志社大学西門前に立つ薩摩藩邸跡の碑である。
京都市の石碑資料によると、薩摩藩は錦小路通東洞院にあった本邸に加え、文久3年(1863年)、相国寺近くの二本松にも藩邸を設けた。いま残るのは屋敷の建物ではなく、昭和43年(1968年)に京都市が建てた石標だ。
ここを最初に置くのは、事件の現場から始めないためでもある。幕末の京都では、各藩が滞在し、人が集まり、政治上の判断を重ねる場所があった。次の3地点で目にする衝突の前に、まずその拠点を置く。
② 蛤御門 — 建物に残る傷
南へ進むと、京都御苑の西側に蛤御門がある。
京都市の年表は、元治元年(1864年)7月19日、長州藩の軍勢と会津・薩摩・幕府の連合軍がこの門の付近で戦ったと記す。現在も扉には当時の弾痕が残るという。
4地点のうち、ここだけは「跡地を示す碑」だけではない。門という建物と、そこについた傷が残っている。ただし、門は江戸時代には現在より東にあったと同じ資料にあり、傷の残る部材と当時の位置関係までは確認できない。目の前に物があることと、分からないことが無くなることは同じではない。
③ 池田屋騒動址 — 旅宿は残っていない
御苑から三条通へ下ると、池田屋騒動址の碑に着く。
京都市の石碑資料によると、元治元年(1864年)6月5日、新選組が旅宿池田屋で尊王攘夷派の志士を襲撃した。現在の石標は三条通木屋町西入北側に立ち、昭和2年(1927年)に京都市教育会が建てたものだ。
この出来事は蛤御門での戦いより前に起きている。順路は年代順ではなく、北から南へ歩くための並びである。池田屋の建物そのものも残っていない。いま見える店舗や町並みを、事件当時の現物と取り違えないようにしたい。
→ 池田屋事件の跡(三条小橋のたもと・池田屋騒動之址の石標)
④ 近江屋跡 — 商家の跡を示す石標
最後は、河原町通蛸薬師下る西側の近江屋跡である。
京都市の石碑資料は、慶応3年(1867年)11月15日の夜、坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で襲撃されたと記す。ここでも建物は残っておらず、現在あるのは昭和2年に京都市教育会が建てた石標だ。襲った者が誰だったのかは、この資料では特定されていない。
藩の大きな屋敷から歩き始め、最後に着くのは町なかの商家跡である。政治と武力衝突の舞台が、御所の周辺だけで完結していなかったことが、4地点の位置関係から分かる。
年代順ではなく、「残り方」の順路
年代だけを並べ直すと、薩摩藩二本松屋敷の新設(1863年)、池田屋騒動(1864年6月)、蛤御門付近の戦い(同年7月)、近江屋での襲撃(1867年)となる。歩く順番とは、池田屋と蛤御門が逆になる。
それでもこの4地点を北から南へ結ぶ価値はある。藩邸跡は大学の門前の碑、蛤御門は門と傷、池田屋と近江屋は市街地の石標として残る。出来事の年代だけでなく、何が残り、何が失われたかを比べられるからだ。
4地点を一日で歩いた記録は、真夏の京都、幕末跡を歩いた一日にある。
4地点は観光施設だけを巡るコースではない。大学利用者や店舗利用者、歩道を行き交う人の生活動線にある。構内や店舗へ無断で入らず、通行を妨げず、門や碑に触れて傷つけない。いまの町への配慮まで含めて、痕跡を歩く順路にしたい。
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