薩摩藩邸跡(二本松屋敷・同志社大学西門前の石標)|何があった場所か

幕末の薩摩藩が、錦小路通東洞院の本邸とは別に、相国寺の近くの二本松に構えた藩邸の跡。屋敷は残らず、同志社大学西門前に昭和43年(1968)に京都市が建てた石標が立つ。現地の説明板は、敷地が同志社大学今出川キャンパスの約三分の二を占めたこと、戊辰戦争の直後に会津藩士の山本覚馬がここに幽閉されたことを記す。
時のながれ
- 永徳2年(1382) — 相国寺が創建される。境内をめぐる水路や石敷道路の遺構が、のちに同志社大学の構内で見つかっている。
- 文久2年(1862) — 島津久光が上京し、寺田屋事件で尊攘過激派を鎮撫した。現地の説明板は、この年の九月に薩摩藩が相国寺から土地を借りうけて二本松に藩邸を造営したと記す。
- 文久3年(1863) — 京都市の石碑資料は、錦小路通東洞院の本邸に加えて、この年に相国寺近くの二本松にも藩邸が設けられ、新たな政治拠点になったと記す。
- 元治元年(1864)7月19日 — 禁門の変。薩摩藩は幕府・会津藩などと連携し、長州藩を中心とする勢力と戦った。
- 慶応4年・明治元年(1868) — 大政奉還ののち戊辰戦争が起こる。その直後、会津藩士の山本覚馬がこの藩邸に幽閉され、幽閉中に建白『管見』をまとめたと現地の説明板は記す。
- 明治期 — 藩邸は京都府に接収されたのち民間へ売却され、人手を経て新島襄が購入した。
- 昭和43年(1968)11月 — 京都市が「薩摩藩邸跡」の石標を建てた。
- 現在 — 屋敷は残らず、同志社大学今出川キャンパスの西門前に石標と説明板が立つ。
現地の写真


編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 石標の名称・所在地・寸法・建立の記録は、京都市のいしぶみデータベース(KA006 薩摩藩邸跡)で確認した。所在地は上京区烏丸通今出川上る東側(同志社大学西門前)、建立年は1968年、建立者は京都市、寸法は高103×幅18×奥行18cm、刻字は南西面が「薩摩藩邸跡」、北西面が「昭和四十三年十一月 京都市」と記録されている。
- 同じ資料は、薩摩藩邸が錦小路通東洞院にある本邸に加えて文久3年に相国寺近くの二本松にも設けられ、新たな政治拠点になったこと、この石標が文久3年に新造された藩邸の跡を示すものであることを記す。
- 同じ資料で、藩主島津忠義の父久光(1817〜87)が文久2年(1862)に上京して尊攘過激派を鎮撫したこと(寺田屋事件)、翌年の八月十八日の政変や元治元年(1864)の禁門の変で、薩摩藩が幕府や会津藩などと連携して長州藩を中心とする尊攘勢力を一掃したことも確認した。
- 石標の位置は、京都市が世界測地系で北緯35度01分48.1秒/東経135度45分33.9秒として公表している。
- 同志社大学の西門前に「薩摩藩邸跡」と刻んだ石標が立っていることを現地で確認した(2026-08-22 撮影)。
- 石標のそばに、同志社大学の名で「京・薩摩藩邸(二本松屋敷)」の説明板が掲げられている。日本語・英語・中国語・韓国語の四か国語で書かれ、藩主は島津氏、石高は七七万石と記す(2026-08-22 撮影)。
- 同じ説明板は、文久二年(一八六二)九月に薩摩藩が相国寺から土地を借りうけて京都に新たな藩邸を造営したこと、その敷地が同志社大学今出川キャンパスの約三分の二を占める広さで御所に近接していたこと、この場所が幕末京都における薩摩藩の政治的な重要拠点になっていったことを記す(2026-08-22 撮影)。
- 同じ説明板は、大政奉還の後に戊辰戦争が勃発し、その直後に会津藩士の山本覚馬(新島襄の妻・八重の兄)が捕えられてこの藩邸に幽閉されたこと、その折にまとめた建白(通称『管見』)が京の近代化の指針として後に影響を与えたことを記す(2026-08-22 撮影)。
- 同じ説明板は、明治時代になると京の薩摩藩邸が京都府に接収され、民間に売却され、そして人手を経て新島襄が購入したと記す(2026-08-22 撮影)。
- 説明板に添えられた絵図は「改正京町御絵図細見大成」の慶応4(1868)年のもので、京都市歴史資料館の所蔵と記されている(2026-08-22 撮影)。
- 石標の北側、同志社大学今出川キャンパスに「中世相国寺の遺構復元」の説明板が立つ。良心館地点の発掘調査(2010〜2012)で中世相国寺に関わる遺構が数多くみつかったこと、みつかった遺構の一部をここに移築・復元していることを記す(2026-08-22 撮影)。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、京都市がこの石標について公表している位置をそのまま採った。
- 藩邸の建物は何も残っていない。写真は石標と説明板までとし、校舎そのものが主になるものは外した。
- この土地は現在、同志社大学の校地で、学生と教職員が日々使う場所である。石標と説明板は烏丸通に面して立っているので、構内へ立ち入らずに見られる。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 石標の各面のうち、現地で撮影できたのは刻字のある南西面だけで、建立年を刻む北西面は写っていない。面ごとの刻字は京都市のいしぶみデータベースの記録による(2026-08-22 撮影)。
- 藩邸の敷地の範囲を実測した公的な資料には到達できなかった。「今出川キャンパスの約三分の二」という広さは現地の説明板の記述による。
- 山本覚馬が幽閉された建物が敷地のどこにあったかを示す資料には到達できなかった。
- 二本松の藩邸が設けられた年が資料で食い違う。京都市のいしぶみデータベースは文久3年とし、この石標も文久3年に新造された藩邸の跡を示すものと記録する。一方、現地の説明板は文久二年(一八六二)九月に薩摩藩が相国寺から土地を借りうけて造営したと記す。土地を借りた時期と藩邸が成立した時期を、それぞれの資料が別々に指している可能性がある。
参考・出典
- KA006 薩摩藩邸跡(いしぶみデータベース)
京都市(フィールド・ミュージアム京都・公式) - 現地説明板「京・薩摩藩邸(二本松屋敷)」
同志社大学(同志社大学西門前の現地掲示。2026-08-22 撮影確認) - 現地の石標「薩摩藩邸跡」
京都市(昭和43年11月建立。2026-08-22 撮影確認) - 現地説明板「中世相国寺の遺構復元」
同志社大学今出川キャンパスの現地掲示(2026-08-22 撮影確認)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
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