猿ヶ辻(京都御所の築地塀で鬼門の角だけを欠いた一画)|何があった場所か
京都御所を囲む築地塀は、北東(丑寅)の角だけが直角をやめて内側に欠き込まれている。都全体ではなく御所という建物の鬼門を避けた形と伝わり、軒下には日吉山王の神使とされる木彫りの猿が置かれ、金網で覆われている。
時のながれ
- 元弘元年(1331) — 里内裏のひとつ東洞院土御門殿で光厳天皇が即位し、以後この地が御所となった。
- 安政2年(1855) — 焼失を繰り返したのち、平安時代の内裏の姿にならって現在の建物が再建された。
- 文久3年(1863) — 5月20日夜、御所からの帰途にあった姉小路公知が襲われ、翌21日に没した。猿ヶ辻の変とも朔平門外の変とも呼ばれる。
- 慶応2年(1866) — 京都御所の敷地が拡張され、猿ヶ辻は西の朔平門寄りから現在の位置になった。
- 明治2年(1869) — 明治天皇の東京遷幸に伴い公家たちも移り、御所周辺の公家町は急速に荒廃した。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 築地塀の東北の角に大きな欠き込みが造られ、軒下に烏帽子をかぶり御幣をかつぐ木彫りの猿が金網で覆われて置かれていることは、宮内庁の京都御所公式サイトで確認した。
- この角が鬼門にあたり、日吉山王社の神の使いの猿を祀るという由来は、環境省の国民公園 京都御苑の公式ページで確認した。
- 猿が夜にいたずらをするため金網で閉じ込めたという言い伝えは、宮内庁と環境省の双方の公式ページに載っている。
- 神猿(まさる)が魔が去るに通じる魔除けであること、京都御所の鬼門にあたる猿が辻に神猿が置かれていることは、日吉大社の公式サイトで確認した。
- 猿ヶ辻が慶応2年の京都御所の敷地拡張に伴って現在の位置になり、それ以前は西側の朔平門寄りにあったことは、宮内庁の公式サイトで確認した。
- 文久3年5月20日に姉小路公知が御所からの帰途に襲われ、翌21日に没したことは、コトバンク所収のデジタル版 日本人名大辞典+Plus とブリタニカ国際大百科事典 小項目事典で確認した。
- この地が御所となった経緯(元弘元年の光厳天皇即位)と、安政2年の内裏再建、明治2年の東京遷幸後の公家町の荒廃は、環境省の京都御苑公式ページで確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標は京都御苑内の猿ヶ辻の代表点である。北の朔平門と東の建春門の位置関係から、築地塀の東北隅にあたることを地図資料で照合した。
- 名称の表記は、宮内庁が猿ヶ辻、環境省が猿が辻を用いる。
- 宮内庁の説明では猿ヶ辻が現在の位置になったのは慶応2年の敷地拡張後で、文久3年の事件当時の猿ヶ辻はより西の朔平門寄りにあたる。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 築地塀の角を欠く造作がどの改築に遡るのかを示す年代資料には到達できなかった。
- 猿ヶ辻の変の現場が猿ヶ辻のどの地点であったかを特定する一次資料には到達できなかった。
参考・出典
- 猿ヶ辻 - 京都御所
宮内庁(京都御所 公式サイト) - 御苑案内図(猿が辻)|京都御苑|国民公園|環境省
環境省(国民公園 京都御苑 公式サイト) - 神猿について|日吉大社
日吉大社(公式サイト) - 見どころ|京都御苑|国民公園|環境省
環境省(国民公園 京都御苑 公式サイト) - 歴史|京都御苑|国民公園|環境省
環境省(国民公園 京都御苑 公式サイト) - 姉小路公知とは? 意味や使い方 - コトバンク
コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 所収)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 蛤御門の弾痕と伝わる跡(禁門の変の最大の激戦地)(戦の痕跡・約598m)
- 応仁の乱 勃発地(御霊神社・御霊合戦の旧跡)(戦の痕跡・約1.0km)
- 堀川(平安京造営時の運河・涸れ川からの再生)(水の痕跡・約1.1km)
- 西陣(応仁の乱の西軍の陣に由来するとされる織物の町の通称)(地の痕跡・約1.2km)