西陣(応仁の乱の西軍の陣に由来するとされる織物の町の通称)|何があった場所か
応仁の乱で山名宗全らの西軍が陣を構えた一帯が、乱後に西陣と呼ばれるようになったと伝わる。西陣という行政地名はなく、その範囲は京都市の資料でも一定しない。堀川通沿いの山名町には、宗全の邸跡を示す石標が立つ。
時のながれ
- 応仁元年(1467) — 山名宗全らの西軍と細川勝元らの東軍が京都で対立し、11年に及ぶ応仁・文明の乱が始まる。
- 文明9年(1477) — 乱が終わり、堺などへ避難していた織手が京都へ戻って織物づくりを再開する。
- 文明19年(1487) — 蔭凉軒日録の正月24日条に西陣の名がみえる。乱の終結から10年で地名として定着していた。
- 享保15年(1730) — 上立売通室町西入から出た火が西陣一帯を焼き、西陣焼けと呼ばれる。民家約3800軒が焼失したと伝わる。
- 昭和14年(1939) — 京都市教育会が、山名宗全邸址と刻んだ高さ約120センチの石標を堀川通沿いに建てる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 応仁の乱で山名宗全が細川勝元の東軍に対して西軍の陣を張ったところから西陣の名が生まれたという説明は、京都市上京区役所の学区案内と、京都市歴史資料館フィールド・ミュージアム京都の文化史12 西陣織で確認した。
- 地名としての初見が蔭凉軒日録の文明19年(1487年)正月24日条であることは、京都市歴史資料館の同じ資料と、平凡社の日本歴史地名大系で確認した。
- 西陣という行政地名はないことは京都市歴史資料館の資料で、西陣地域の明確な定義はなく範囲を限定しないという京都市の方針は総合企画局のページで確認した。
- 乱の間に堺などへ避難していた織手が乱の終結後に京都へ戻り、織物づくりを再開した経緯は、西陣織工業組合の公式サイトと京都市歴史資料館の資料で確認した。
- 山名宗全邸址の石標が昭和14年(1939年)に京都市教育会によって建てられたことと、その位置は、京都市いしぶみデータベースで確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、京都市いしぶみデータベースが公開する山名宗全邸址の石標の位置(北緯35度01分53.4秒/東経135度45分06.4秒)で、範囲の定まらない通称地名である西陣の代表点である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 蔭凉軒日録の当該条そのものには到達できず、引用は事典類を経由している。
- 西軍の陣がどこまで広がっていたかを示す同時代の絵図には到達できなかった。
- 西陣の範囲は資料によって異なる。京都市歴史資料館の資料は、江戸時代の西陣を北は今宮神社御旅所、南は一条通あるいは中立売通、東は堀川通、西は七本松通にわたる一帯と説明する。一方で京都市総合企画局のページは、西陣地域の明確な定義はなく着眼点によって範囲が異なるとして、範囲を限定しない立場をとる。デジタル大辞泉は新町通以西・千本通まで・一条通以北とし、精選版日本国語大辞典はこれに鞍馬口通以南を加える。
- 山名宗全ゆかりの石標の位置も資料で表現が異なる。京都市いしぶみデータベースには山名宗全邸址と山名宗全旧蹟の2基が約100メートル離れた別地点で登録されており、京都市上京区役所は山名宗全舊蹟を山名町にあると説明し、京都観光Naviは山名宗全邸宅跡の所在地を堀川上立売下る西入藤木町とする。
参考・出典
- 我が学区の身近な歴史舞台再発見/今も暮らしに生きる歴史(名所旧跡)
京都市上京区役所(公式) - 文化史12 西陣織(フィールド・ミュージアム京都)
京都市歴史資料館(京都市公式) - KA079 山名宗全邸址(いしぶみデータベース)
京都市歴史資料館(京都市公式) - KA074 山名宗全旧蹟(いしぶみデータベース)
京都市歴史資料館(京都市公式) - 西陣を中心とした地域の活性化
京都市 総合企画局プロジェクト推進室(公式) - 山名宗全邸宅跡
京都観光Navi(京都市観光協会・京都市公式観光サイト) - 西陣の由来
西陣織工業組合(公式) - 西陣とは(日本歴史地名大系・改訂新版世界大百科事典ほか)
コトバンク(平凡社・小学館の事典を収録)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 百々橋の礎石(応仁の乱で東西両軍が争った橋の跡)(戦の痕跡・約263m)
- 堀川(平安京造営時の運河・涸れ川からの再生)(水の痕跡・約723m)
- 聚楽第跡(豊臣秀吉の政庁・文禄4年の破却で消えた城)(地の痕跡・約905m)
- 応仁の乱 勃発地(御霊神社・御霊合戦の旧跡)(戦の痕跡・約1.1km)