聚楽第跡(豊臣秀吉の政庁・文禄4年の破却で消えた城)|何があった場所か
豊臣秀吉が天正14年(1586)に着工し翌年完成させた政庁兼邸宅の跡。文禄4年(1595)に秀次の失脚とともに徹底的に破却され、地上の建物は残らない。現在は中立売通の石標と、山里町・如水町などの町名、発掘で見つかった堀跡が痕跡として残る。
時のながれ
- 天正14年(1586) — 豊臣秀吉が政庁兼邸宅として聚楽第の造営に着工した。
- 天正15年(1587) — 聚楽第が完成した。
- 天正16年(1588) — 後陽成天皇の行幸を迎え、有力大名に忠誠を誓わせた。
- 文禄4年(1595) — 天正19年に関白職とともに聚楽第を譲られていた秀次が失脚し、聚楽第は徹底的に破却された。石垣などの資材は伏見へ移された。
- 平成3年(1991) — 中立売通大宮下るの発掘調査で本丸東濠が見つかり、大量の金箔瓦が出土した。この瓦は国の重要文化財に指定されている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 着工が天正14年(1586)、完成が天正15年(1587)、破却が文禄4年(1595)であることは、京都市歴史資料館のフィールド・ミュージアム京都と、京都府埋蔵文化財調査研究センターの年表で一致した。
- 石標の所在地と建立年は、京都市のいしぶみデータベースで確認した。中立売通裏門西入南側の石標は大正4年(1915)に京都市教育会が建てたもので、中立売通大宮北西角にはもう一基、東濠跡を示す石標が2009年に建てられている。
- 東濠から出土した金箔瓦が国の重要文化財であることは、文化庁の文化遺産オンラインで確認した。指定は2002年6月26日、出土地は上京区和水町と両御霊町とされている。
- 2012年の調査で本丸南辺の石垣を長さ32メートルにわたり検出し、残存高が最大2.3メートルであったことは、調査を行った京都府埋蔵文化財調査研究センターの遺跡紹介で確認した。
- 令和5年度の調査で幅約12メートル、深さ約3メートルの堀状遺構を確認したことは、京都市文化財保護課の記者発表資料で確認した。同資料は破却について、一宇も残さず基礎にいたるまで悉く毀たしめ、という記述を引いている。
- 智恵光院通出水下るの松林寺の境内に周囲より低くくぼんだ部分があり、平成9年(1997)の発掘調査で外郭の堀の一部と見られるようになったことは、京都市歴史資料館の解説で確認した。
- 山里町・如水町・浮田町・黒門通などの町名や通り名が城内の施設や周囲の武家町の名残であることは、京都市歴史資料館の解説で確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、中立売通裏門西入南側に建つ聚楽第址の石標について、京都市のいしぶみデータベースが示す世界測地系の値を換算したものである。
- 城の範囲は現在も確定していないため、地図上の点は代表点である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 中京区の聚楽廻という地域名の由来については、公的機関の資料まで到達できなかった。
- 西本願寺飛雲閣や大徳寺唐門が聚楽第の移築遺構かどうかは、京都市歴史資料館の解説でも伝えられるという書き方であり、確定した資料には到達できなかった。
- 外郭の南の限りについて、京都市歴史資料館は押小路通、京都市のいしぶみデータベースは下立売通としており、資料の間で食い違う。
- 東濠が確認された調査の年について、京都府埋蔵文化財調査研究センターと京都市文化財保護課は1991年(平成3年)、京都市上京区の紹介は平成4年としている。調査地はいずれも中立売通大宮下るで一致する。
参考・出典
- 都市史18 聚楽第と御土居
京都市歴史資料館(フィールド・ミュージアム京都) - 令和5年度 記者発表資料 聚楽第跡・平安宮跡の発掘調査
京都市 文化市民局 文化財保護課 - KA052 聚楽第址(いしぶみデータベース)
京都市(フィールド・ミュージアム京都) - KA152 聚楽第址(いしぶみデータベース)
京都市(フィールド・ミュージアム京都) - 上京区の史蹟百選/聚楽第址碑
京都市上京区役所 - 遺跡ギャラリー No.019 聚楽第跡
公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター - 京都府聚楽第跡出土金箔瓦
文化庁 文化遺産オンライン - 聚楽第跡(京都観光Navi)
公益社団法人 京都市観光協会(京都市公式観光サイト)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
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- 平安宮 大極殿跡(千本丸太町・内野児童公園の大極殿遺址碑)(地の痕跡・約732m)
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