平安宮 大極殿跡(千本丸太町・内野児童公園の大極殿遺址碑)|何があった場所か
平安宮(大内裏)の正殿・大極殿があった一帯。即位などの国家的儀礼や政務の場だったが、安元3年(1177)の大火で焼失して以後は再建されず、内野と呼ばれて中世には宅地化した。今は千本丸太町上るの内野児童公園に、明治28年建立の大極殿遺址碑が立つ。
時のながれ
- 延暦13年(794) — 副碑の碑文は、桓武天皇がこの地を選んで新都を建て、平安京と号したと刻む。
- 貞観18年(876) — 大極殿が創建後はじめて焼失した。
- 安元3年(1177) — 大火で大極殿が焼失し、以後は再建されなかった。
- 中世 — 一帯は内野と呼ばれ、宅地化が進んで寺院も移ってきた。
- 明治28年(1895) — 平安遷都千百年紀念祭にあたり、湯本文彦の平安京実測にもとづいて京都市参事会が大極殿遺址碑を建てた。同じ紀念祭では、平安宮大極殿院を模した平安神宮の社殿が左京区岡崎に建てられた。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 大極殿が大内裏朝堂院の正殿で、即位などの国家的儀礼や政務が行われた場であったことと、貞観18年(876)に創建後はじめて焼失し、安元3年(1177)の大火で焼失して以後は再建されなかったことは、京都市歴史資料館のいしぶみデータベースで確認した。
- 石碑の所在地が上京区千本通丸太町上る西側の内野児童公園内であること、建立年が明治28年、建立者が京都市参事会であることは、同じくいしぶみデータベースで確認した。所在地は京都市公式の京都観光Naviでも上京区千本通丸太町上ルとされている。
- 明治28年の平安遷都千百年紀念祭にあたり湯本文彦が平安京の実測を行って大極殿をこの地に比定したこと、現在はこの石標の位置より南東で遺跡が見つかっていることも、同データベースで確認した。
- 平安宮が平安京の中枢部である大内裏を指し、その中に大極殿など儀式のための宮殿と、天皇の生活の場である内裏、周辺の官衙が置かれたことは、京都市上京区役所の史蹟百選のページで確認した。同ページによれば、この一帯はやがて内野と呼ばれ、中世には宅地化して寺院も移ってきた。
- 平安神宮の社殿が平安遷都千百年紀念祭と第4回内国勧業博覧会の会場施設として平安宮大極殿院を模して計画されたものであることは、文化庁の文化遺産オンラインで確認した。同社の所在地は左京区岡崎入江町ほかである。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、京都市歴史資料館のいしぶみデータベースが公開する石標の位置座標(世界測地系・北緯35度01分08.9秒/東経135度44分32.0秒)を十進法に換算したものである。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 大極殿の創建年と、大極殿の中心が現在のどの地点にあたるかを示す発掘報告については、一次資料まで到達できなかった。
- 石碑の文字は、京都市歴史資料館のいしぶみデータベースでは大極殿遺址、京都市の京都観光Naviでは大極殿遺跡と表記されている。
参考・出典
- KA024 大極殿遺址碑(いしぶみデータベース)
京都市(京都市歴史資料館 フィールド・ミュージアム京都) - 上京区の史蹟百選/平安宮址
京都市上京区役所(公式) - 大極殿跡|京都市公式 京都観光Navi
京都市公式 京都観光Navi(京都市観光協会) - 平安神宮 大極殿(文化遺産オンライン)
文化庁
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 聚楽第跡(豊臣秀吉の政庁・文禄4年の破却で消えた城)(地の痕跡・約732m)
- 神泉苑(平安京の禁苑の跡・二条城の築城で縮小した苑池)(水の痕跡・約1.0km)
- 堀川(平安京造営時の運河・涸れ川からの再生)(水の痕跡・約1.1km)
- 西高瀬川(文久3年開削の木材運河・千本三条の材木町)(水の痕跡・約1.2km)