神泉苑(平安京の禁苑の跡・二条城の築城で縮小した苑池)|何があった場所か
延暦13年(794)の平安京造営とともに、大内裏の南に接して設けられた禁苑(天皇の庭園)の跡。当初は南北4町・東西2町を占めたが、江戸初期の二条城築城で北側を失い、今の境内は約6600平方メートルとされる。御池通の名は、この苑の池に由来すると考えられている。
時のながれ
- 延暦13年(794) — 平安京の造営にともない、大内裏の南に接して禁苑が設けられた。北は二条大路、南は三条大路、西は壬生大路、東は大宮大路に囲まれ、南北4町・東西2町を占めた。
- 天長元年(824) — 淳和天皇の命により、空海が善女龍王を招いて雨を祈り、雨が降ったと伝わる。以後、雨乞いの祈りの場として重んじられた。
- 貞観5年(863) — 疫病を鎮めるため、朝廷による御霊会が営まれた。苑の四つの門が開かれ、読経や音楽、舞などが行われた。
- 慶長8年(1603) — 徳川家康が二条城を築いた。この築城にともない神泉苑は境域の北側を失い、湧水が城の堀に取り込まれたとされる。
- 昭和10年(1935) — 12月24日、国の史跡に指定された。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 平安京造営の際に禁苑として設けられ、当初は北を二条大路、南を三条大路、西を壬生大路、東を大宮大路に囲まれた南北4町・東西2町であったことは、京都市のフィールド・ミュージアム京都と、同市いしぶみデータベースの石標解説で確認した。
- 国の史跡としての指定年月日が昭和10年(1935)12月24日であることは、文化庁の国指定文化財等データベースで確認した。同データベースの解説文にも、敷地が縮小して往時の姿に乏しい旨の記載がある。
- 江戸時代の初めに二条城の築城にともなって規模が縮小し、湧水が城の堀に取り込まれたことは、京都市中京区役所の記事と神泉苑の公式サイトに記載がある。二条城の築城が慶長8年(1603)であることは、京都市の元離宮二条城公式サイトで確認した。
- 貞観5年(863)5月20日に朝廷による御霊会が営まれ、苑の四つの門が開かれて読経や音楽、舞などが行われたことは、京都市の資料で確認した。貞観11年(869)に祇園社から神泉苑へ神輿を送ったことは、八坂神社の公式サイトに記載がある。
- 平成2年から5年にかけての地下鉄東西線建設にともなう発掘調査で造営当時の東西幅が確認されたことと、押小路通大宮の交差点北側に東の端を示す石標が立つことは、京都市いしぶみデータベースで確認した。
- 御池通の名が神泉苑の池に通じる道に由来すると考えられることは、京都市の御池通の概要のページに記載がある。
そのため、このページではこうしています
- 座標は神泉苑の境内、善女龍王社へ渡る橋のあたりの代表点である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 天長元年(824)に空海が善女龍王を招いて雨を降らせたという話は、神泉苑と京都市の資料にいずれも言い伝えの形で載る。京都市の資料によれば、記録の上での雨乞いの初例は貞観17年(875)の真雅である。
- 国の史跡としての指定面積は、文化庁のデータベースでは空欄であった。
- 造営当初の面積は、京都市の資料が約13万平方メートル、神泉苑の住職が公益財団法人京都市文化観光資源保護財団の記事に寄せた文章が約10万平方メートルで、数値が一致しない。
- 桓武天皇の行幸の初見は、京都市のフィールド・ミュージアム京都が延暦18年(799)7月19日、同市のいしぶみデータベースと神泉苑の公式サイトが延暦19年(800)で、年が食い違う。
- 苑の位置は、文化庁の指定解説と京都市中京区役所の記事が大内裏の南に接するとし、京都市のフィールド・ミュージアム京都と神泉苑の公式サイトは大内裏の南東とする。
参考・出典
- 国指定文化財等データベース 史跡 神泉苑
文化庁(公式データベース) - 都市史04 神泉苑(フィールド・ミュージアム京都)
京都市(公式) - NA117 神泉苑東端線(いしぶみデータベース)
京都市(公式) - 区民ライターがゆく!頑張る中京人・魅力再発見(寺院神社)神泉苑
京都市中京区役所(公式) - 御池通の概要
京都市(公式) - 概要(世界遺産・元離宮二条城)
京都市(元離宮二条城 公式) - 神泉苑の歴史
神泉苑(公式) - 京都の文化遺産を守り継ぐために 神泉苑の歴史と保存への取り組み
公益財団法人 京都市文化観光資源保護財団
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 西高瀬川(文久3年開削の木材運河・千本三条の材木町)(水の痕跡・約588m)
- 本能寺跡(本能寺の変の舞台・現在の寺町御池とは別の旧地)(戦の痕跡・約831m)
- 平安宮 大極殿跡(千本丸太町・内野児童公園の大極殿遺址碑)(地の痕跡・約1.0km)
- 聚楽第跡(豊臣秀吉の政庁・文禄4年の破却で消えた城)(地の痕跡・約1.5km)