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歴史の痕跡

京都はなぜ空襲されなかったのか — 実際に爆弾が落ちた馬町・西陣と、原爆目標の記録

京都市にも空襲はあった。1945年1月16日夜の東山区馬町が最初とされ、4月16日に右京区太秦、6月26日に上京区西陣が爆撃を受けた。大規模な空襲を受けなかった理由は、原爆の投下目標の候補とされていたためとする研究があり、ウォーナーが古都を守ったという話は伝説として検証されてきた。

2026-09-28 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(7項目)

京都市にも空襲はあった。京都府立京都学・歴彩館(京都府の資料館)は、1945年(昭和20年)1月16日の夜に東山区馬町が爆撃を受けたのが京都で最初の空襲だとしている。その後、4月16日に右京区太秦、6月26日に上京区西陣が爆撃を受けた。

一方で、東京や大阪のように街が広く焼ける大規模な空襲は受けていない。その理由としては、京都が原爆の投下目標の候補とされていたためだとする研究がある。米国の美術研究者ウォーナーが文化財を守るよう進言したからだ、という話も長く語られてきたが、こちらは伝説として検証の対象になってきた。

「京都は空襲されなかった」は本当か

上京区の辰巳公園に2005年(平成17年)8月に建てられた「空爆被災を記録する碑」には、京都市は戦災を受けなかった都市と言われてきたが、東山区馬町と太秦の三菱の工場、そして西陣の一帯が爆撃を受けた、と刻まれている。碑文の全文は総務省の追悼施設のページに載っている。

立命館大学国際平和ミュージアムは、1995年の館報で、京都は東京や大阪に比べて規模は小さいものの、馬町空襲から終戦までの7か月間に約40か所で空襲を受けたと記している。

日付場所記録の出どころ
1945年1月16日 夜東山区馬町京都府立京都学・歴彩館の資料ガイド
1945年4月16日 正午ごろ右京区太秦同館が国立国会図書館のレファレンス協同データベースに寄せた回答
1945年6月26日 昼前上京区西陣(出水)辰巳公園の碑文(総務省のページに全文)
京都市の空襲の3地点を番号で示した地図。1は1945年1月16日夜の東山区馬町、2は4月16日正午ごろの右京区太秦、3は6月26日昼前の上京区西陣(出水)。このほかにも空襲を受けた場所があり、立命館大学国際平和ミュージアムの館報は約40か所とする。出典: 国土地理院(地理院タイル)を加工して作成
京都市の空襲の3地点を番号で示した地図。1は1945年1月16日夜の東山区馬町、2は4月16日正午ごろの右京区太秦、3は6月26日昼前の上京区西陣(出水)。このほかにも空襲を受けた場所があり、立命館大学国際平和ミュージアムの館報は約40か所とする。出典: 国土地理院(地理院タイル)を加工して作成

馬町空襲では何が起きたのか

歴彩館の資料ガイド第61号は、歌人の吉井勇の日記から馬町空襲をたどっている。1945年1月16日の夜、東山区の馬町が爆撃を受け、死者が30人を超えた。京都で最初の空襲で、6月26日の西陣空襲とともに京都の戦争被害を語るものとして記憶されている、と同館は書く。

吉井勇は当時、馬町から2キロほど北の左京区岡崎円勝寺町に住んでいた。日記には、寝入ってまもなく「轟然たる爆裂音」で目を覚ましたこと、翌日に人から「昨夜の爆撃は五条阪なるよし」と聞いたことが記されている。同館の注によると、五条坂は馬町の北側にあたる。

物理学者の湯川秀樹も、研究室の日記にこの空襲を書き留めていた。京都大学基礎物理学研究所の湯川記念館史料室が公開している解読文によると、1月18日の日記に「京都への投弾はこれが初めてである」とある。1月下旬の日記には、落下地点として鳥辺山墓地、三島神社、修道校、妙法院前、京都幼稚園、東山渋谷通りの名が並ぶ。

亡くなった人の数は、記録した時期や数え方の基準が資料ごとに違うため、同じ物差しでは比べられない。京都女子大学附属小学校の解説は、正確な死傷者数はわかっていないとしたうえで、京都府の記録では死者34人としている。湯川の日記も死者34名と書く。立命館大学国際平和ミュージアムの館報は死者41人、歴彩館は30名を超えると記す。

湯川秀樹の研究室日記(1945年1月下旬)に書かれた落下地点のうち、妙法院前と東山渋谷通りのおおよその位置を、東大路通と渋谷通の交差点付近に置いた図。鳥辺山墓地・三島神社・修道校・京都幼稚園は位置を置いていない。出典: 国土地理院(地理院タイル)を加工して作成
湯川秀樹の研究室日記(1945年1月下旬)に書かれた落下地点のうち、妙法院前と東山渋谷通りのおおよその位置を、東大路通と渋谷通の交差点付近に置いた図。鳥辺山墓地・三島神社・修道校・京都幼稚園は位置を置いていない。出典: 国土地理院(地理院タイル)を加工して作成

西陣空襲は、どこに落ちたのか

辰巳公園の碑文によると、1945年6月26日の昼前、B29の爆音が近づき、爆発が起きた。被害を受けたのは、北は上長者町通、南は下立売通、東は大宮通、西は浄福寺通に囲まれた、およそ400メートル四方の地域である。当時の報告では、50キロ爆弾が7発とも5発とも言われた。報道が制限されていたため、多くの市民には知られなかったという。

碑文は、この400メートル四方の被害を、西陣警察署の記録として次のように刻んでいる。即死43人、重傷13人、軽傷53人の計109人。被害を受けた家屋は292戸、焼け出された人は850人。碑が建つ辰巳公園も、被災した跡地にできた公園である。

辰巳公園の所在地は上京区智恵光院通下長者町上ル西辰巳町で、総務省のページは二条駅から徒歩20分と案内している。立命館大学国際平和ミュージアムは1995年の館報で、この空襲で全壊した家から一つだけ残った仏壇の扉を、館の資料として紹介している。

西陣空襲の被害の範囲を示した地図。北は上長者町通、南は下立売通、東は大宮通、西は浄福寺通に囲まれた、およそ400メートル四方の地域で、その中に辰巳公園がある。
西陣空襲の被害の範囲を示した地図。北は上長者町通、南は下立売通、東は大宮通、西は浄福寺通に囲まれた、およそ400メートル四方の地域で、その中に辰巳公園がある。

太秦にも空襲はあったのか

あった。歴彩館がレファレンス協同データベースに寄せた回答によると、1974年に出た『かくされていた空襲:京都空襲の体験と記録』(京都空襲を記録する会・京都府立総合資料館編)に「1945(昭和20)年京都空襲被害一覧」が載っている。その一覧では、4月16日の正午、右京区太秦の巽町・唐渡町・東唐渡町ほか1か所が、1機のB29から爆弾10発を受け、2人が亡くなった。負傷者と被害家屋の数は、同じ回答が挙げる本ごとに異なる。

なぜ大規模な空襲を受けなかったのか

手がかりの一つは、原爆の投下目標を選んだ米国側の記録である。広島平和記念資料館によると、原爆の投下目標は軍人と科学者でつくる目標検討委員会で検討された。1945年4月27日の第1回会議で17の地域が研究の対象になり、5月11日の第2回会議で京都・広島・横浜・小倉の4つが選ばれた。

同館が展示する第2回会議の要約(日本語訳)には、候補を調べる条件が挙げられている。「直径3マイル以上の大規模市街地を有する重要な目標であること」「爆風によって効果的な損害を与え得ること」「この8月までに、攻撃を受ける可能性が低いこと」の三つである。北九州市平和のまちミュージアムも、候補地の条件の一つに「空襲の被害が少ないこと」があったと説明している。

ところが、7月25日付の原爆投下命令書に並ぶ目標は、広島・小倉・新潟・長崎で、京都は入っていない(広島平和記念資料館)。米国のジョージ・ワシントン大学にある研究機関「国家安全保障アーカイブ」が公開する資料集の解説によると、トルーマン大統領はポツダム会談の間に書いた日記に、スティムソン陸軍長官の働きかけを受けて京都を原爆の目標から外すことを書き留めている。

この経過から、京都が大規模な空襲を免れたのは原爆の目標として残されていたためだ、と論じた研究者がいる。愛知県の戦争と平和の資料館「ピースあいち」の解説によると、歴史研究者の吉田守男は、京都は原爆の投下目標だったため通常の空襲が禁じられており、奈良や鎌倉は小さな都市で軍事施設が少なく爆撃の順番が後になり、実行される前に日本が降伏した、と結論づけている。吉田の研究は1995年に『京都に原爆を投下せよ ウォーナー伝説の真実』として出版され、2002年に『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』と題を改めて出された。

1945年の年表。京都の空襲(1月16日 東山区馬町、4月16日 右京区太秦、6月26日 上京区西陣)と、原爆の投下目標を選んだ米国側の記録(4月27日 目標検討委員会の第1回会議で17の地域、5月11日 第2回会議で京都・広島・横浜・小倉、7月25日 原爆投下命令書の目標は広島・小倉・新潟・長崎)を一本に並べた。
1945年の年表。京都の空襲(1月16日 東山区馬町、4月16日 右京区太秦、6月26日 上京区西陣)と、原爆の投下目標を選んだ米国側の記録(4月27日 目標検討委員会の第1回会議で17の地域、5月11日 第2回会議で京都・広島・横浜・小倉、7月25日 原爆投下命令書の目標は広島・小倉・新潟・長崎)を一本に並べた。

「ウォーナーが古都を守った」という話は、どこから来たのか

鎌倉駅の西口には、米国の美術学者ラングドン・ウォーナー(1881〜1955)の碑がある。鎌倉市中央図書館がレファレンス協同データベースに寄せた回答は、ウォーナーについて、「文化は戦争に優先する」とルーズベルト大統領に訴え、日本の古都を空襲から守った人だという伝説がある、と書いている。

ピースあいちの解説は、この話が広まるうえで大きかったのは1945年11月11日付の朝日新聞の記事だと見ている。ウォーナーが作った文化財の一覧は実在するが、それは日本の代表的な文化財を並べたもので、爆撃から外すための一覧ではなかった、と同じ解説は述べる。その一覧に載っていた名古屋城の天守閣や首里城が焼けたこと、ウォーナー本人が一貫してこの話を否定していたと言われることも挙げている。

同じ解説によると、ウォーナーをたたえる碑は民間の手で全国に6か所建てられた。

跡と記録は、どこで見られるのか

馬町では、2014年(平成26年)1月16日、京都市立東山総合支援学校の敷地内に「馬町 空襲の地」と刻んだ碑が建てられた(京都女子大学附属小学校の解説による)。学校の敷地なので、見学は学校の案内に従う必要がある。場所は馬町空襲の地にまとめている。西陣の碑は先に触れた辰巳公園にある。西陣という地名の由来は西陣のスポットで追える。

記録そのものに当たるなら、次の場所がある。

総務省の「国内各都市の戦災の状況」には、近畿の都市の項目に京都府内の市が載っていない。京都の空襲を調べるときは、府の資料館や大学、図書館の資料から探すことになる。

原爆投下の訓練として全国の都市に落とされた模擬原爆については、模擬原爆と大阪・田辺に記録がある。

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