大阪の歴史痕跡
模擬原爆と大阪・田辺 — 広島の11日前に落ちた「パンプキン」
原爆投下の「訓練」は、大阪でも行われていた
原子爆弾が落とされた都市はどこですか、と聞かれれば、答えは決まっている。広島と長崎。では、模擬原子爆弾が落とされた都市は――この問いに答えられる人は、ぐっと少なくなる。
その一つが、大阪市東住吉区の田辺だ。1945年(昭和20年)7月26日午前9時26分。広島に原爆が投下される、ちょうど11日前のことになる。
模擬原子爆弾は、長崎に投下された原爆「ファットマン」とほぼ同じ形・同じ重さに作られた爆弾で、中身は核物質ではなくTNT火薬だった。ずんぐりした形状と橙黄色の塗装から、米軍内では「パンプキン(かぼちゃ)」と呼ばれた。原爆投下の訓練と事前のデータ採取のために、実際の日本の都市へ投下された爆弾。田辺では、これで7人が亡くなっている。
1945年7月26日 午前9時26分、田辺小学校の北側
大阪市東住吉区が公開している記録(「東住吉100物語」)によると、投下地点は田辺2丁目、現在の田辺小学校の北側にあたる住宅地だった。B-29が投下したのは1発。その1発で、死者7人、重軽傷者73人、焼失・倒壊485戸、罹災者1,645人という被害が出た。
爆弾の重さは約4.5トン(資料によっては5トンとも)。当時、日本の市街地に落とされていた通常の爆弾よりはるかに大きい。ただし、この爆弾が「何のための1発だったのか」を知る人は、当時の日本側には誰もいなかった。
全国49発のうちの1発だった
模擬原爆(パンプキン爆弾)の記録によると、1945年7月20日から終戦前日の8月14日までの間に、18都府県30都市へ計49発が投下され、全国で400人以上が亡くなったとされる。
なぜこんな爆弾が必要だったのか。原爆投下の作戦には、実物と同じ重さ・同じ弾道特性を持つ爆弾を、実際の高度から実際の都市へ投下する訓練が欠かせなかった。搭乗員の習熟と、弾道などのデータ採取。それが模擬原爆の目的だったとされる。
投下したのは、のちに広島・長崎へ原爆を運んだ第509混成部隊。目標は、原爆投下の候補地だった京都・広島・新潟・小倉の周辺都市にある大規模工場や鉄道操車場などとされ、本番と同じく爆撃手の目視による投下が求められた。負傷者は全国で約1,300人にのぼったと記録されている。
つまり田辺への投下は、広島・長崎に先立つ「本番前の練習」だった。訓練のために、7人が亡くなった。
46年間、「1トン爆弾」だと思われていた
調べていて手が止まったのは、この事実が判明した年だ。1991年(平成3年)。投下から46年後になる。
それまで田辺の住民は、あの爆弾を「1トン爆弾」だと信じていた。空襲の多かった大阪で、大きな爆弾が1発落ちた――そう記憶されていた出来事の正体が分かったのは、愛知県春日井市の市民グループ「春日井の戦争を記録する会」が、国立国会図書館に所蔵された米軍文書を調べたことがきっかけだった(平和教材『大阪市内で戦争と平和を考える』による)。春日井市もまた、1945年8月14日に模擬原爆4発の投下を受けた土地だ。文書に記された「大阪市市街地」への投下地点を、関西大学の小山仁示教授が田辺だと特定する。報道を機に被災者からの証言が集まり、爆心地と被害の実態が明らかになっていった。
46年のあいだ、この出来事は記録の上では「よくある空襲被害の一つ」として扱われてきたことになる。落とした側の文書が読まれるまで、落とされた側は自分たちに何が落ちたのかを知らなかった。
55年後に父の死因を知った息子
犠牲になった7人の中に、村田繁太郎氏(当時55歳)がいた。息子の保春氏が「父の死は模擬原爆によるものだった」と知ったのは、2000年8月。地域で配られたビラがきっかけだったという(同資料による)。
保春氏は2001年、自費で「模擬原子爆弾投下跡地」の碑を建てた。除幕式は同年4月2日。本人はこれを「五十五年後の親孝行」と語っている。碑文には、1945年7月26日9時26分に模擬原爆が投下されたこと、村田繁太郎氏ほか6名が亡くなったこと、戦争のない世界への願いが記されている(碑文の全文は総務省の追悼施設ページに掲載されている)。
碑は当初、投下地点の近くに建っていたが、マンション建設に伴って2019年5月末、近くの恩楽寺(田辺1丁目)の山門へ移設された。
年表で見る「田辺の1発」
- 1945年7月26日 午前9時26分 — 東住吉区田辺に模擬原爆1発。死者7人、重軽傷者73人
- 1945年8月6日 — 広島に原爆投下
- 1945年8月9日 — 長崎に原爆投下
- 1945年8月14日 — 模擬原爆の投下は終戦前日まで続いた(春日井市など)
- 1991年 — 米軍文書の調査で「模擬原爆」だったことが判明。それまで田辺では「1トン爆弾」と伝わっていた
- 2000年8月 — 村田保春氏が、父・繁太郎氏の死因を知る
- 2001年4月2日 — 慰霊碑の除幕式
- 2019年5月末 — 慰霊碑を恩楽寺山門へ移設
- 毎年7月26日 — 投下時刻に合わせて追悼式
いまも毎年、7月26日の朝に
恩楽寺に移った碑の前では、毎年7月26日、投下時刻に合わせて追悼式が営まれている(東住吉区の資料による)。寺には模擬原爆に関する資料の展示もあり、平和学習にも活用されている。見学を考えている場合は、事前に寺へ問い合わせてほしい。
ここは「歴史の跡地」であると同時に、いまも祈りが続いている場所だ。訪れるなら、静かに。場所と出典の詳細は模擬原子爆弾投下跡地之碑(恩楽寺)にまとめている。
大阪に残る戦争の痕跡は、この1発だけではない。1945年3月から8月まで8回に及んだとされる大阪大空襲については、大阪空襲はどこが焼けたのかで場所ごとに整理した。8月6日と8月9日に広島・長崎を思うとき、その少し前、大阪の空の下でも同じ計画の一部が動いていた。田辺の碑は、その事実を伝え続けている。
あなたの住む場所の周りにも、気づかれないまま残っている記憶があるかもしれない。→ 痕跡マップで土地の記憶をたどる
参考・出典
- https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033897.html
- https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/osaka_osaka_city016/index.html
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%AD%E3%83%B3%E7%88%86%E5%BC%BE
- https://jinken-kyoiku.org/heiwa/hs-mogi.html
- https://www.onrakuji.com/%E6%A8%A1%E6%93%AC%E5%8E%9F%E7%88%86%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8/