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歴史の痕跡

京都の血天井はどこにあるのか — 伏見城の床板を上げた5つの寺と、岐阜・崇福寺の天井

血天井は、1600年の伏見城の戦いで鳥居元忠らが自刃した廊下の板を、供養のため寺の天井に張ったものと伝わる。京都では養源院・源光庵・正伝寺・宝泉院、宇治の興聖寺が公式に説明している。岐阜の崇福寺の血天井は同じ年に落ちた岐阜城の床板で、攻めた側と守った側が逆になる。

2026-09-28 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(8項目)

血天井は、慶長5年(1600年)の伏見城の戦いで、城を守っていた鳥居元忠らが自刃した廊下の板を、寺の天井に張ったものと伝わる。京都市の資料は、京都市内の養源院・正伝寺・源光庵の3か寺について、いずれも「鳥居元忠らが自刃した廊下の板を用いたと伝えます」と書く。寺の公式サイトで血天井を説明しているのは、この3か寺に大原の宝泉院と宇治の興聖寺を加えた5か寺だ。

岐阜の崇福寺にも血天井がある。こちらは同じ1600年に落ちた岐阜城の床板で、城を攻めた側と守った側の組み合わせが、伏見とは逆になる。

血天井とは何か — 伏見城の廊下の板

京都市の歴史資料「都市史20 伏見城」によれば、伏見城は伏見区桃山の丘陵に豊臣秀吉と徳川家康が築いた複数の城の総称である。秀吉は慶長3年(1598年)8月18日にこの城で没し、その後に家康が入ったが、慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の前哨戦で落城した。

京都市図書館がレファレンス協同データベースに登録した回答は、血天井を次のように定義している。関ヶ原合戦の前哨戦で鳥居元忠が守る伏見城が落城した際、元忠らが自刃した、血痕の残る廊下板を使って作られた天井。

つまり血天井は、城の建物そのものではなく、城の「床」だった板である。それが寺に移り、頭の上に張られている。

伏見城の年表。1598年8月18日に秀吉がこの城で没し、1600年に関ヶ原合戦の前哨戦で落城、1602年に家康が再建し、1623年に廃城となった。
伏見城の年表。1598年8月18日に秀吉がこの城で没し、1600年に関ヶ原合戦の前哨戦で落城、1602年に家康が再建し、1623年に廃城となった。

伏見城で何があったのか

源光庵の説明によれば、慶長5年、家康は会津の上杉景勝を討つために諸将を率いて出陣し、その際、鳥居元忠に伏見城を預けて守る役目を与えた。家康の留守のあいだに石田三成方の軍勢が城を囲んだ、というのが寺と京都市図書館の回答に共通する筋道である。

この戦いで亡くなった人の数は、資料によって数え方も書き方も違う。城を守った兵の総数を書く資料と、最後に自刃した人の数を書く資料があり、「余」「以上」「約」の付き方もそれぞれである。以下は、どの資料が何と書いているかを並べたものだ。

「380」という数は、源光庵と正伝寺の説明、観光庁の2つの解説文に出てくる。ただし、その数を数えた一次資料がどれなのかは、いずれの説明にも示されていない。

京都のどの寺にあるのか

公式サイトで血天井を説明している5か寺を、洛北の3か寺、東山、宇治の順に並べる。寺ごとに、天井の場所と、説明の言い方が少しずつ違う。

宝泉院(左京区大原) — 寺の「みどころ案内」は、慶長五年関ヶ原合戦前に鳥居元忠以下数百名が伏見城中で自刃したとし、その霊をなぐさめるため、自刃した床板を天井にして祀り、供養としている、と書く。観光庁の解説文は、宝泉院の天井に使われた床板を16枚とする。

源光庵(北区鷹峯) — 寺は「本堂の血天井は、伏見桃山城の遺構です」と書く。本堂は元禄7年(1694年)、金沢の商人・中田静家の寄進で建てられたと寺は記している。毎年3月と9月の彼岸の中日には「鳥居元忠一党追善法要」が営まれる。

正伝寺(北区西賀茂) — 寺によれば、本堂は承応2年(1653年)に南禅寺塔頭・金地院の小方丈を移したもので、伏見桃山城の御成殿の遺構を移したものと伝えられている。血天井は方丈の広縁の天井である。京都市の資料は、同じ本堂を「寛永年間に伏見城の殿舎が移築されたと伝えられ」と書き、移された時期の書き方が寺とは違う。

養源院(東山区) — 寺は、文禄3年(1594年)に淀殿が父・浅井長政の供養のために建て、火災で焼けたのち、元和7年(1621年)に淀殿の妹で徳川秀忠の正室・お江が伏見城の遺構を用いて再建したと書く。本堂(客殿)の廊下の天井は、すべて血天井だという。

興聖寺(宇治市) — 寺は、慶安元年(1648年)に淀城主・永井尚政が伏見城の遺構を用いて諸堂を建て、現在の地に再建したと書く。法堂は伏見城の遺構を用いて建てられたと伝えられ、天井には手形や足形の一部が残っている、とする。興聖寺の公式の説明には、鳥居元忠の名は出てこない。

京都市図書館の回答は、この5か寺のほかに、妙心寺の塔頭・天球院(右京区)と八幡市の神應寺も、血天井のある寺として挙げている。この2か寺については、寺の公式の説明を確かめられていない。

血天井のある5か寺と伏見城跡の位置図。宝泉院(左京区大原)・正伝寺(北区西賀茂)・源光庵(北区鷹峯)・養源院(東山区)・興聖寺(宇治市)と、伏見城跡(伏見区桃山)。
血天井のある5か寺と伏見城跡の位置図。宝泉院(左京区大原)・正伝寺(北区西賀茂)・源光庵(北区鷹峯)・養源院(東山区)・興聖寺(宇治市)と、伏見城跡(伏見区桃山)。

なぜ天井に上げたのか

寺の説明は、どれも「弔い」「供養」という言葉を使う。宝泉院は「霊をなぐさめ」「供養としている」と書き、養源院は、自刃した兵士らをお弔いするもので、血で染まった廊下を寺の天井に上げて残していると書く。源光庵は、戦った人々をこの地で供養し、その話を語り継いでいると記す。

養源院は、もう一歩踏み込んだ事情を書いている。寺の説明によれば、淀殿が建てた寺をお江が再建しようとしたとき、幕府の役人の中に反対の動きがあった。お江は「伏見城の戦いで自害した徳川方将士の供養」を再建の条件として願い出て、血天井を用いるという条件のもとで再建がかなった、という。寺はこれを、当院にとって最も重要な歴史的資料だと位置づけている。

なぜ床のまま使わず、天井に張ったのか。その理由を直接書いた寺の説明は、今回見た範囲には無かった。

本当に血なのか

寺の説明と公的な資料を、確からしさの順に並べると次のようになる。

京都市の資料は、3か寺とも「用いたと伝えます」と書く。

寺の側は、跡の形を具体的に書く。興聖寺は手形や足形の一部が残っているとし、養源院は鳥居元忠の自害の痕と伝わるものも残されているとする。観光庁の解説文は、養源院では入口を入ってすぐの天井に元忠本人の体と顔の跡を見ることができるとし、宝泉院では血でくっきり残った足跡や、鎧や甲冑の位置が分かる箇所があるとする。

板の染みを化学的に調べ、人の血であると確かめた結果を公表した資料には、今回たどり着けなかった。

もう一つ、年を並べておく。京都市の資料によれば、伏見城は1600年に落ちたあと、慶長7年(1602年)に家康が再建し、元和9年(1623年)に廃城となった。同じ資料は、各地の寺社に移された伏見城の遺構のほとんどは、秀吉の時代ではなく家康の時代の伏見城のものと考えられている、とも書く。養源院の再建は1621年で、廃城の2年前にあたる。興聖寺の再建は1648年、正伝寺の本堂の移築は1653年、源光庵の本堂の建立は1694年である。

1600年の板が、いつ城から外され、どこを経て寺に届いたのか。観光庁の宝泉院の解説文は、床板は後に回収されて様々な寺院に渡ったと書くが、その年や経路は示していない。確かめたい人は、京都市図書館の回答が挙げる『正伝寺とその文化財』(正伝寺、1976年)や『豊臣秀吉の居城 聚楽第/伏見城編』(1971年)が手がかりになる。

伏見城と寺の年を一本に並べた図。1600年に伏見城が落城、1602年に家康が再建、1621年に養源院の再建、1623年に廃城、1648年に興聖寺の再建、1653年に正伝寺の本堂の移築、1694年に源光庵の本堂の建立。
伏見城と寺の年を一本に並べた図。1600年に伏見城が落城、1602年に家康が再建、1621年に養源院の再建、1623年に廃城、1648年に興聖寺の再建、1653年に正伝寺の本堂の移築、1694年に源光庵の本堂の建立。

見学できるか

5か寺とも拝観の中で見られる。以下は2026年9月28日に各寺の公式サイトと京都府観光連盟の案内で確認した内容で、行く前にもう一度確かめたほうがいい。

宝泉院・源光庵・正伝寺・養源院・興聖寺の拝観の時間・拝観料・注意を並べた表(2026年9月28日に各寺の公式サイトと京都府観光連盟の案内で確認)。
宝泉院・源光庵・正伝寺・養源院・興聖寺の拝観の時間・拝観料・注意を並べた表(2026年9月28日に各寺の公式サイトと京都府観光連盟の案内で確認)。

堂内の撮影について、5か寺の公式サイトには可否の記載が見あたらなかった。天井は寺にとって供養の場であり、撮影の可否は現地の掲示と寺の案内に従うことになる。

なお、伏見区桃山にいま建っている天守は、昭和39年(1964年)に遊園地の「伏見桃山城キャッスルランド」とともに作られたもので、京都市の資料は、秀吉・家康の伏見城とは全く別のものだと書いている。本丸の跡の周辺は明治天皇陵になっている。

岐阜・崇福寺の血天井との違い

岐阜市の崇福寺も、本堂の天井を「血天井」と呼ぶ。寺の説明によれば、信長の孫の織田秀信が西軍に属し、関ヶ原合戦のおよそ1か月前に東軍の攻撃を受けて岐阜城が落城した際、戦死した将兵の霊を弔うため、城の床板を天井に張ったもので、今でも血痕が付着しているという。→ 崇福寺のスポットページ

岐阜市の崇福寺の山門。門の奥に石畳の参道が抜ける(2026年9月撮影)
岐阜市の崇福寺の山門。門の奥に石畳の参道が抜ける(2026年9月撮影)

並べると、こうなる。

崇福寺には信長・信忠父子の廟もあり、拝観料は大人200円。岐阜の崇福寺と、同じ日に回った麓の寺社は「岐阜城天守閣が休館中でも歩ける、信長の痕跡」にまとめた。

1600年の二つの落城を並べた図。伏見城は東軍の鳥居元忠が守り西軍が攻め、その床板は京都と宇治の5か寺に張られた。岐阜城は西軍の織田秀信が守り東軍が攻め、その床板は岐阜市の崇福寺に張られた。
1600年の二つの落城を並べた図。伏見城は東軍の鳥居元忠が守り西軍が攻め、その床板は京都と宇治の5か寺に張られた。岐阜城は西軍の織田秀信が守り東軍が攻め、その床板は岐阜市の崇福寺に張られた。

資料で分かること、分からないこと

確かめられたこと。

確かめられなかったこと。


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この記事の場所のそばにある痕跡

崇福寺の周りには、岐阜市の痕跡が4件ある。

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参考・出典

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