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死 死の痕跡 資料確認済み

崇福寺(織田信長・信忠父子の廟所と、落城の床板を張った血天井)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 地点特定(ピンは山門。廟所は本堂の裏にあたる) / 最終確認日: 2026-09-12
崇福寺の山門。門の奥に石畳の参道が抜ける(2026年9月撮影)
崇福寺の山門。門の奥に石畳の参道が抜ける(2026年9月撮影)

岐阜市長良福光の崇福寺は、臨済宗妙心寺派の寺で、境内に織田信長・信忠父子の廟がある。寺は、廟所は本堂裏にあり、位牌形の石碑を縦に両分して父子の法名を左右に並べて刻んであると記す。岐阜観光コンベンション協会は、この織田信長父子廟を岐阜市指定史跡とする。

信長が美濃に入った永禄10年(1567年)、この寺に禁制が出された。寺が掲げる禁制の本文は、当寺ならびに門前では前々からの規定を守れ、みだりに竹木を伐採したり、陣取ったり、放火したり乱暴狼藉したりする者があれば成敗を加える、という趣旨で、末尾は「永禄10年9月  信長(花押)」と結ばれている。

本堂の天井は血天井と呼ばれる。寺は、信長の孫にあたる織田秀信が西軍に属し、慶長5年(1600年)に岐阜城が落城した際、戦死した将兵の霊を弔うため城の床板を天井に張ったものだと記す。境内の説明板は、鐘楼の梵鐘が太平洋戦争で供出され戦後に再々製されたことも書いている。戦国の弔いと、昭和の戦争の痕跡が、同じ境内に並んでいる。

時のながれ

現地の写真

入口の説明板「崇福寺 織田信長、信忠 廟所」(2026年9月撮影)
入口の説明板「崇福寺 織田信長、信忠 廟所」(2026年9月撮影)
鐘楼の脇の説明板。末尾に梵鐘の供出が書かれている(2026年9月撮影)
鐘楼の脇の説明板。末尾に梵鐘の供出が書かれている(2026年9月撮影)
中門・土塀の説明板。「中門は、当時のままである。」で終わる(2026年9月撮影)
中門・土塀の説明板。「中門は、当時のままである。」で終わる(2026年9月撮影)
崇福寺(織田信長・信忠父子の廟所と、落城の床板を張った血天井)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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