崇福寺(織田信長・信忠父子の廟所と、落城の床板を張った血天井)|何があった場所か

岐阜市長良福光の崇福寺は、臨済宗妙心寺派の寺で、境内に織田信長・信忠父子の廟がある。寺は、廟所は本堂裏にあり、位牌形の石碑を縦に両分して父子の法名を左右に並べて刻んであると記す。岐阜観光コンベンション協会は、この織田信長父子廟を岐阜市指定史跡とする。
信長が美濃に入った永禄10年(1567年)、この寺に禁制が出された。寺が掲げる禁制の本文は、当寺ならびに門前では前々からの規定を守れ、みだりに竹木を伐採したり、陣取ったり、放火したり乱暴狼藉したりする者があれば成敗を加える、という趣旨で、末尾は「永禄10年9月 信長(花押)」と結ばれている。
本堂の天井は血天井と呼ばれる。寺は、信長の孫にあたる織田秀信が西軍に属し、慶長5年(1600年)に岐阜城が落城した際、戦死した将兵の霊を弔うため城の床板を天井に張ったものだと記す。境内の説明板は、鐘楼の梵鐘が太平洋戦争で供出され戦後に再々製されたことも書いている。戦国の弔いと、昭和の戦争の痕跡が、同じ境内に並んでいる。
時のながれ
- 文明元年(1469年) — 現地の説明板は、崇福寺の創建をこの年とする。
- 永禄10年(1567年) — 美濃に入った信長が、この寺に禁制を出す。掲げられた文書の末尾は「永禄10年9月」。寺の説明文は8月とする。
- 天正10年(1582年) — 本能寺の変。信長・信忠父子の葬儀に使われた位牌を安置する廟が、この境内に設けられたと説明板は記す。
- 慶長5年(1600年) — 関ヶ原の前哨戦で岐阜城が落城。寺は、戦死者を弔うため城の床板を本堂の天井に張ったと記す。
- 昭和(太平洋戦争) — 境内の説明板は、稲葉一鉄寄贈の梵鐘が供出され、戦後に再々製されたと記す。
現地の写真




近くの痕跡
- 織田信長公居館跡(金華山の麓に発掘された「宮殿」と、山上の斎藤氏の石垣)(地の痕跡・約1.2km)
- 伊奈波神社の移座(斎藤道三が稲葉山城のために動かした社)(地の痕跡・約1.7km)
- 円徳寺(織田塚と、岐阜城を出た秀信が髪を剃った寺)(死の痕跡・約3.1km)
- 地下に入った羽島用水と、地上に残った一区間(両内野のせせらぎ)(水の痕跡・約13.6km)
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 崇福寺公式サイトは、信長・信忠父子の廟所は本堂裏にあり、墓の高さは139cm、巾39cm、厚さ30cmの位牌形の石碑で、縦に両分して父子の法名を左右に並べて刻んであると記す。
- 岐阜観光コンベンション協会は、織田信長父子廟を岐阜市指定史跡とし、非情成仏絵巻を岐阜市指定重要文化財とする。
- 崇福寺公式サイトに禁制の本文が掲げられ、末尾は「永禄10年9月 信長(花押)」である。
- 崇福寺公式サイトは、本堂の血天井を、慶長5年(1600年)の岐阜城落城の際に戦死した将兵を弔うため城の床板を天井に張ったものと記す。
- 現地の説明板(岐阜観光コンベンション協会)は、創建は文明元年、開基は守護代斉藤長弘、開山は悟渓門下の独秀乾才禅師と記す(2026-09-12 撮影確認)。
- 現地の梵鐘の説明板は、一鉄寄贈の梵鐘が元和元年に改鋳され、太平洋戦争で供出、戦後再々製と記す(2026-09-12 撮影確認)。
- 現地の中門の説明板は「(中門は、当時のままである。)」と記す(2026-09-12 撮影確認)。
そのため、このページではこうしています
- 廟所と血天井の両方が、この場所を弔いの場にしている。
- 血天井は本堂の天井にあり、拝観料(大人200円)を納めて堂内に入って見るものである。
- 戦国の弔いと、太平洋戦争で梵鐘が供出された記録が、同じ境内に並んでいる。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 廟に納められているものの詳細(遺品を埋めたとする伝えの一次資料)には到達できなかった。岐阜観光コンベンション協会は、本能寺の変ののち側室お鍋の方が遺品を送り寺内に埋め位牌を安置させたと記すが、その典拠は示されていない。
- 血天井の血痕が実際にどの部分に残るかを示す公的な資料には到達できなかった。
- 禁制の年月が資料内で食い違う。寺の説明文は「永禄10年(1567年)8月」とし、同じページに掲げる禁制本体の末尾は「永禄10年9月」である。どちらかに寄せず両方を示した。
- 開基の人名が現地の二枚の板で異なる。入口の説明板(岐阜観光コンベンション協会)は「開基は守護代斉藤長弘」と記し、中門の説明板(寺)は「当山開基は、斎藤利藤、その父が利安」と記す。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :説明文・編集部の調査メモ・まだ分かっていないこと・時のながれの4か所で、信長の禁制の末尾の引用「永禄十年九月」を、寺の公式サイトに掲げられた原文の字のとおり「永禄10年9月」に改めた。年月の中身は変わらない。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。