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現地レポ

岐阜城天守閣が休館中でも歩ける、信長の痕跡 — 崇福寺の廟・円徳寺の制札・道三が動かした神社

天守閣と資料館は改修で令和9年10月末(予定)まで休館中だが、信長の名のついたものは麓に多い。崇福寺には信長・信忠父子の廟と血天井があり、円徳寺には楽市楽座制札が伝わり、伊奈波神社は道三が城を構える際に麓へ移された社だ。発掘調査案内所は無料で入れる。

2026-09-12 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(5項目)

9月12日の午後、岐阜市内を回った。崇福寺、信長居館跡の発掘調査案内所、伊奈波神社、円徳寺。金華山には登っていない。岐阜城の天守閣が、いま休館しているからだ。

岐阜市の公式ページには、こう書かれている。

現在の岐阜城は、1956年(昭和31年)に再建され、半世紀以上が経過したことから、令和7年から令和9年10月末(予定)までの間、改修工事を実施いたします。改修工事に伴い、天守閣及び資料館を休館いたします。リニューアルオープンは、令和9年11月予定です。

山の上に上がれない日に、この街で何が見られるのか。回ってみると、信長の名のついたものは、山の上より麓に多かった。

崇福寺の参道に立つ標柱。「織田信長公霊廟所」と刻まれている
崇福寺の参道に立つ標柱。「織田信長公霊廟所」と刻まれている

崇福寺 — 廟は本堂の裏にある

午後三時前、崇福寺に着いた。岐阜城からは車ですぐで、寺には無料の駐車場がある。

崇福寺の山門。門の奥に石畳の参道が抜ける
崇福寺の山門。門の奥に石畳の参道が抜ける

境内の入口に、岐阜観光コンベンション協会の白い説明板が立っている。

崇福寺は臨済宗妙心寺派にして神護と号し創建は文明元年開基は守護代斉藤長弘開山は悟渓門下の独秀乾才禅師であります。

同じ板の後半に、廟の話がある。

当境内には織田信長、信忠父子の野位牌(略)を安置せし廟があり徳川時代にも御朱印地として特別保護をうけていた寺であります。

入口の説明板「崇福寺 織田信長、信忠 廟所」。全文が読める
入口の説明板「崇福寺 織田信長、信忠 廟所」。全文が読める

寺の公式サイトによれば、廟所は本堂の裏にあり、位牌形の石碑に父子の法名が左右に並べて刻まれている。岐阜市の史跡に指定されている。

同じページに、信長が出した禁制の本文も載っている。「當寺並門前、可為如前々」から始まり、竹木を伐り、陣取り、放火し、乱暴狼藉をはたらく者は成敗する、と書いて、末尾が「永禄十年九月 信長(花押)」。ところが、その禁制を説明する寺の文は「永禄10年(1567年)8月、織田信長公、美濃に入るや、先ず禁制を出して」と書く。8月と9月。どちらが正しいのかは調べがつかなかった。

門を入った先の参道と庭。曇っていたが、静かだった
門を入った先の参道と庭。曇っていたが、静かだった

境内には信長にまつわる掲示が点々とあるが、細かい解説が続くわけではない。参道も庭も手入れが行き届いていて、車の音が遠い。血天井は本堂の天井にあり、拝観(大人200円)の中で見るものだ。慶長5年(1600年)に岐阜城が落ちたとき、戦死した将兵を弔って城の床板を張ったものだと寺は説明している。

鐘楼のそばに、梵鐘の説明板がある。稲葉一鉄が寄進した鐘の話で、最後の一行はこうだ。

一鉄寄贈の梵鐘は、元和元年に改鋳された。(太平洋戦争で供出、戦後再々製)

鐘楼の脇の説明板。末尾に梵鐘の供出が書かれている
鐘楼の脇の説明板。末尾に梵鐘の供出が書かれている

戦国の話をしている板の一番下に、昭和の戦争が一行だけ挟まっている。

もう一枚、中門の説明板がある。末尾に「(中門は、当時のままである。)」とあり、その前に「尚、当山開基は、斎藤利藤、その父が利安。斎藤利藤(妙椿)は、利安の兄に当たる。」と書かれている。入口の板は開基を「守護代斉藤長弘」と記していた。同じ境内の二枚の板が、別の名を挙げている。

崇福寺の開基について入口の説明板と中門の説明板が別の名を挙げていること、禁制の日付について寺の公式サイトの本文と説明文が九月と8月で分かれていることを並べた表。
崇福寺の開基について入口の説明板と中門の説明板が別の名を挙げていること、禁制の日付について寺の公式サイトの本文と説明文が九月と8月で分かれていることを並べた表。
中門・土塀の説明板。「中門は、当時のままである。」で終わる
中門・土塀の説明板。「中門は、当時のままである。」で終わる

捨てられた道具が、妖怪になって、成仏する

参道の途中に、岐阜市の文化財説明板が立っている。信長とは関係のない話だ。

「非情成仏絵巻」は、通称「付喪神絵巻(つくもがみえまき)」とも呼ばれ、室町時代の作で京都の東寺(とうじ)から移されたものと伝えられます。「付喪神」とは、百歳を超えて精霊(せいれい)を持つようになった道具の化け物のことを言います。
年末の煤払(すす)いで捨てられた古道具たちが、捨てられた怨(うら)みを晴らすため、妖怪となって毎晩人間を脅(おびや)かしますが、護法童子(ごほうどうじ)(仏の従者)に打ち負かされて改心し、僧になって修行し、成仏するという内容が描かれています。

板は昭和63年7月25日指定の市指定重要文化財と記し、本図は現存する「付喪神絵巻」の中では最古のものと考えられる、とも書いている。絵巻そのものは境内に出ていない。立っているのは板だけだ。

「非情成仏絵巻」の説明板。岐阜市が令和元年十二月に立てたもの
「非情成仏絵巻」の説明板。岐阜市が令和元年十二月に立てたもの

天守は閉まっている。案内所で聞いたこと

崇福寺から岐阜公園へ移動した。公園の来園者休憩所の中に「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」がある。観覧料は無料、係の方の対応は9時から16時まで(火曜と年末年始を除く)と市が案内している。

案内所の入口。織田木瓜の紋の暖簾が下がる
案内所の入口。織田木瓜の紋の暖簾が下がる

館内の方が、岐阜城と信長のことを一通り教えてくれた。天守が見られない件についてはこうだった。いま改装中で天守は見られないが、発掘調査箇所①までは見られる、と。館内の掲示にも「発掘調査箇所① 上台所(見学可)」「発掘調査箇所② 天守南通路(見学可)」と吹き出しが付いていた。

金華山と岐阜城の立体模型が据えられていて、登山道に A・B・C・D の記号が振ってある。係の方は、Dが信長の歩いたとされる道だと教えてくれた。岐阜市の公式サイトのほうは、登山道を10本、固有名で案内している。七曲り登山道(大手道)、めい想の小径(水手道)、百曲り登山道、馬の背登山道といった具合で、A〜Dの記号は出てこない。どの名前がDに当たるのかは、その場では聞きそびれた。

石垣のことは、市の登山ガイドに書いてある。

「めい想の小径(水手道)」と「鼻高ハイキングコース」の分岐点において、信長期の巨石列や石垣、道三期の石垣を確認できます。

同じページの、めい想の小径の欄にはこうもある。

岐阜城改修工事のため、令和7年11月25日から令和9年9月末(予定)までの間、山頂手前で行き止まりになるため、岐阜城や山頂トイレへは入れません。また、七曲り登山道等への通り抜けもできませんので、ご注意ください。

石垣の分岐点までは行けて、その先の山頂では行き止まる。

めい想の小径と鼻高ハイキングコースの分岐点では信長期の巨石列や石垣、道三期の石垣を確認でき、令和7年11月25日から令和9年9月末(予定)までは山頂手前で行き止まりになることを示した図。
めい想の小径と鼻高ハイキングコースの分岐点では信長期の巨石列や石垣、道三期の石垣を確認でき、令和7年11月25日から令和9年9月末(予定)までは山頂手前で行き止まりになることを示した図。
展示パネル「山上の斎藤氏の城」。発掘の成果がまとめてある
展示パネル「山上の斎藤氏の城」。発掘の成果がまとめてある

そのパネルに、こう書かれていた。「これまで斎藤氏時代の稲葉山城の姿は謎に包まれていましたが、発掘調査が進んだ結果、信長に先んじて巨石を多用する斎藤氏時代の城の姿が明らかになりつつあります」。巨石を並べたのは信長からだと思っていたので、これは意外だった。

館内の「岐阜城年表」。明治43年に復興天守建造、昭和18年に焼失、昭和31年に再建とある
館内の「岐阜城年表」。明治43年に復興天守建造、昭和18年に焼失、昭和31年に再建とある

年表を見ていて気づいた。いま改修しているのは、昭和31年に建った鉄筋の建物だ。信長の天守ではない。

岐阜城の年表。明治43年に復興天守建造、昭和18年に焼失、昭和31年に再建、令和7年から令和9年10月末(予定)まで改修工事で天守閣と資料館は休館、令和9年11月にリニューアルオープン予定。
岐阜城の年表。明治43年に復興天守建造、昭和18年に焼失、昭和31年に再建、令和7年から令和9年10月末(予定)まで改修工事で天守閣と資料館は休館、令和9年11月にリニューアルオープン予定。
窓辺の展示。「信長時代の石垣」の断面に、裏込め石が詰まっている
窓辺の展示。「信長時代の石垣」の断面に、裏込め石が詰まっている

道三が動かした社 — 伊奈波神社

午後三時半ごろ、伊奈波神社に着いた。金華山の裾にぴたりと寄って建っていて、参道に角度がついている。

石鳥居の奥に神門と拝殿、その先に金華山
石鳥居の奥に神門と拝殿、その先に金華山

神社の公式サイトには、こうある。

天文8年に斎藤道三が稲葉山を居城とするにあたり、現在の稲葉山の麓の地に奉遷されました。

元の鎮座地は、稲葉山の一角の丸山だった。城をつくるので、社のほうが動いた。動かされた先が、いまの場所である。

石段の下から楼門を見上げる
石段の下から楼門を見上げる

境内の奥に、苔の石段と黒い社がある。標柱には「福徳 黒龍大神」と刻まれていた。公式サイトの表記は黒龍神社で、こう書かれている。「黒龍神社は、天文8年(1539年)に伊奈波神社が丸山の地から当鎮座地に遷座される以前から当地に鎮座されています」。

境内の標柱「福徳 黒龍大神」。奥に苔むした石段が続く
境内の標柱「福徳 黒龍大神」。奥に苔むした石段が続く

道三が城を構えたときに動いた社と、その前からここにいたとされる社が、同じ境内に並んでいる。

円徳寺 — 制札と、髪を剃った場所

午後四時すぎ、円徳寺に着いた。岐阜駅から近い街のまん中で、周りはビルだ。境内に無料の駐車スペースがあり、車を停められた(2026年9月時点)。県の観光サイトは駐車場なしと書き、市の観光ナビは有りと書いていて、記載が割れている。

円徳寺の本堂。左右にビルが迫り、電線が横切る
円徳寺の本堂。左右にビルが迫り、電線が横切る

この寺には、国の重要文化財がある。岐阜県の文化伝承課のページによれば、指定名称は「楽市楽座制札 附織田信長百姓帰住制札」、所有者は円徳寺、指定は平成5年6月10日。

上記4枚の制札が円徳寺(旧浄泉坊)に伝存している。これらは、縦約38cm、横約35cm、厚さ1.2cmの檜板に墨書されている。

4枚の一枚目が「永禄十年十月定 織田信長より加納楽市場宛」である。県のページは所在と指定を書くだけで、公開にはふれていない。この日、境内でそれらしい板は見ていない。

境内には、織田塚もある。岐阜観光コンベンション協会は、天文16年(1547年)に織田信秀が井ノ口に攻め入って斎藤道三に大敗し、5,000人ともいわれる戦死者が出た、その戦死者を弔うための塚が浄泉坊に築かれた、と書く。市の指定名は「伝織田塚改葬地」で、伝と改葬地の二語が付いている。

参道の脇に、黒御影の文学碑がはめ込まれていた。

秀信の部下は三千人しかおらなくなってゐた 午後三時秀信は城を出て上加納の円徳寺へ入って髪を剃り十月二十八日高野山へ上ってしまった  直木三十五

境内の文学碑。直木三十五の文章が刻まれている
境内の文学碑。直木三十五の文章が刻まれている

その先の隅に、黒く風化した角柱が立っている。正面の字は読みにくいが、側面に「織田秀信公剃髪遺蹟」と彫ってあった。秀信は信長の孫である。岐阜県の観光サイトは、関ヶ原の合戦の前哨戦「岐阜城の戦い」で池田輝政・福島正則に敗れた秀信が剃髪して仏門に入ったとき、と説明している。

石標の側面。「織田秀信公剃髪遺蹟」と読める
石標の側面。「織田秀信公剃髪遺蹟」と読める

崇福寺の血天井は、慶長5年に岐阜城が落ちたときの床板だという。円徳寺の石標は、その城を出た人が髪を剃った場所に立っている。四か所目で、この日見てきた話がつながった。

円徳寺にまつわる年表。天文16年の織田信秀の敗戦と織田塚、永禄十年十月の楽市楽座制札、慶長5年の岐阜城落城と崇福寺の血天井、秀信が円徳寺で剃髪し十月二十八日に高野山へ上ったこと。
円徳寺にまつわる年表。天文16年の織田信秀の敗戦と織田塚、永禄十年十月の楽市楽座制札、慶長5年の岐阜城落城と崇福寺の血天井、秀信が円徳寺で剃髪し十月二十八日に高野山へ上ったこと。

訪ねるなら

館内のパネル。岐阜公園から伊奈波神社1400m 徒歩21分、崇福寺1500m 徒歩23分とある
館内のパネル。岐阜公園から伊奈波神社1400m 徒歩21分、崇福寺1500m 徒歩23分とある

岐阜城まわりの予定は、すべて岐阜市の公式ページに「(予定)」付きで載っている。以下は2026年9月12日に確認した内容で、行く前にもう一度見たほうがいい。

四か所のほうは、こうだった。

崇福寺・信長居館発掘調査案内所・伊奈波神社・円徳寺の四か所について、2026年9月12日に確認した時間・料金・休みを並べた表。
崇福寺・信長居館発掘調査案内所・伊奈波神社・円徳寺の四か所について、2026年9月12日に確認した時間・料金・休みを並べた表。

天守の囲いが取れるのは令和9年の秋になるらしい。それまでのあいだ、麓の板と石碑は、この日と同じように立っている。

この日に回った四か所は、位置と出典と年表をそれぞれのスポットページにまとめてある。崇福寺、織田信長公居館跡、円徳寺、伊奈波神社の移座。


この土地に、何があったか。→ 痕跡マップで調べる

崇福寺の周りには、岐阜市の痕跡が4件ある。

岐阜市の痕跡 4件をひらく →

参考・出典

21件出典に基づいて掲載している

訂正履歴

公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。

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