円徳寺(織田塚と、岐阜城を出た秀信が髪を剃った寺)|何があった場所か

岐阜駅に近い神田町の街なかに、円徳寺(旧浄泉坊)がある。岐阜観光コンベンション協会は、天文16年(1547年)に織田信秀が井ノ口へ攻め入って斎藤道三に大敗し、5,000人ともいわれる戦死者が出たこと、この戦死者を弔うための織田塚が浄泉坊に築かれ、現在も円徳寺境内に安置されていることを記す。市の指定名称は「伝織田塚改葬地」で、伝と改葬地の二語が付いている。
境内には、岐阜城を出た織田秀信の記憶も残る。石標の側面には「織田秀信公剃髪遺蹟」と刻まれ、隣の文学碑には直木三十五の文章が「午後三時秀信は城を出て上加納の円徳寺へ入って髪を剃り十月二十八日高野山へ上ってしまった」と刻まれている。岐阜県の観光公式サイトは、関ヶ原の合戦の前哨戦「岐阜城の戦い」で池田輝政・福島正則に敗れた秀信が剃髪し仏門に入ったときの髪切塚があると記す。
この寺には国の重要文化財もある。岐阜県は、楽市楽座制札 附織田信長百姓帰住制札を重要文化財(国指定・平成5年6月10日指定)とし、4枚の制札が円徳寺に伝存し、縦約38cm、横約35cm、厚さ1.2cmの檜板に墨書されていると記す。県の記述は所在と指定を述べるにとどまり、公開についてはふれていない。
時のながれ
- 天文16年(1547年) — 観光協会は、織田信秀が井ノ口に攻め入って斎藤道三に大敗し、5,000人ともいわれる戦死者が出たと記す。弔いのため織田塚が浄泉坊に築かれた。
- 永禄10年(1567年) — 信長より加納楽市場宛の制札が出される。県はこれを国重要文化財の1枚目に挙げる。
- 慶長5年(1600年) — 岐阜城の戦いに敗れた織田秀信が、この寺で髪を剃ったと県観光公式サイトは記す。境内の石標の側面に「織田秀信公剃髪遺蹟」と刻まれている。
- 平成5年(1993年) — 楽市楽座制札 附織田信長百姓帰住制札が国の重要文化財に指定される。
- 現在 — 周囲はビルで、境内には織田塚と石標、直木三十五の文学碑が立つ。
現地の写真



近くの痕跡
- 伊奈波神社の移座(斎藤道三が稲葉山城のために動かした社)(地の痕跡・約1.6km)
- 織田信長公居館跡(金華山の麓に発掘された「宮殿」と、山上の斎藤氏の石垣)(地の痕跡・約2.4km)
- 崇福寺(織田信長・信忠父子の廟所と、落城の床板を張った血天井)(死の痕跡・約3.1km)
- 地下に入った羽島用水と、地上に残った一区間(両内野のせせらぎ)(水の痕跡・約13.2km)
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 岐阜県(文化伝承課)は、楽市楽座制札 附織田信長百姓帰住制札を国の重要文化財とし、所在地を岐阜市神田町、所有者を円徳寺、指定年月日を平成5年6月10日と記す。
- 同じページは、4枚の制札(永禄十年十月定ほか)が円徳寺(旧浄泉坊)に伝存し、縦約38cm、横約35cm、厚さ1.2cmの檜板に墨書されていると記す。また、北加納の百姓に帰住を求めた永禄10年9月の制札が附指定されたと記す。
- 岐阜観光コンベンション協会は、天文16年(1547年)の戦死者を弔う織田塚が浄泉坊に築かれ、現在も円徳寺境内に安置されていると記し、市指定重要文化財として「伝織田塚改葬地」を挙げる。
- 岐阜県観光公式サイトは、岐阜城の戦いに敗れた織田秀信が剃髪し仏門に入ったときの秀信公髪切塚があると記す。
- 境内の石標の側面に「織田秀信公剃髪遺蹟」の刻字があり、文学碑に直木三十五の文章が刻まれている(2026-09-12 撮影確認)。
そのため、このページではこうしています
- 境内の中心にあるのは、戦死者の弔い(織田塚)と、落城のあとの剃髪の記憶である。
- 制札は国の重要文化財だが、公開されているかどうかを示す資料は見つけられなかった。岐阜県の記述も所在と指定にとどまる。
- 楽市楽座について岐阜県の説明は、旧来からの楽市場に特権を保証したものと記す。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 宗派を示す公的資料・寺公式には到達できなかった(市・県・観光協会のいずれにも記載が無い)。
- 制札が常時公開されているかどうかを示す資料には到達できなかった。2026-09-12 に境内を歩いた範囲では見ていない。
- 石標の正面の刻字は黒く風化していて確定できなかった。
- 駐車場の有無が資料で食い違う。岐阜県観光公式サイトは「駐車場はありません。」と記し、岐阜観光コンベンション協会は「駐車場 有り」と記す。2026-09-12 の現地では、境内に無料で停められるスペースがあった。
- 織田塚の呼び方が資料で異なる。県観光サイトは「織田塚が…現在も円徳寺境内に安置されています」と書き、観光協会は市指定名称として「伝織田塚改葬地」と書く。
- 信長の岐阜入城年について、岐阜市のまち歩き案内は本文で永禄10年としつつ、注で「円徳寺の寺伝では永禄7年(1564)とされています。」と記す。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 楽市楽座制札 附織田信長百姓帰住制札
岐阜県(文化伝承課) - 円徳寺
公益財団法人 岐阜観光コンベンション協会 - 円徳寺
岐阜県観光公式サイト(岐阜の旅ガイド)
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。