伊奈波神社の移座(斎藤道三が稲葉山城のために動かした社)|何があった場所か

金華山の裾に鎮座する伊奈波神社は、いまの場所が最初の場所ではない。神社公式は、稲葉山近くの丸山の地に祀られていた社が、天文8年(1539年)に斎藤道三が稲葉山を居城とするにあたり、現在の稲葉山の麓の地に奉遷されたと記す。境内の案内も、丸山を伊奈波神社の旧鎮座地とし、古くは稲葉山の山頂に祀られていた峯本宮が、道三の居城にあたって権現山の山頂へ遷されたと記す。
城をつくる側の都合で、社のほうが動いた。その動かされた先が、いまの参道と楼門の場所である。城は廃城となり、山上の天守は昭和に建て直された建物だが、動かされた社のほうは同じ場所で続いている。
境内の奥には黒龍神社がある。神社公式は、黒龍神社は天文8年(1539年)に伊奈波神社が丸山の地から当鎮座地に遷座される以前から当地に鎮座されていると記す。移ってきた社と、その前からここにいたとされる社が、同じ境内に並んでいる。
時のながれ
- 景行天皇の頃(社伝) — 神社公式は、竹内宿禰が稲葉山近くの丸山の地に命を祀ったと記す。
- 天文8年(1539年) — 斎藤道三が稲葉山を居城とするにあたり、社が現在の麓の地へ奉遷される。山頂の峯本宮も権現山の山頂へ遷される。
- 同じ頃 — 黒龍神社は、この遷座より前から当地に鎮座していると神社公式は記す。
- 慶長6年(1601年) — 山上の岐阜城が廃城となる。社は麓に残る。
- 現在 — 参道・楼門・拝殿が金華山の裾に続き、境内の奥に黒龍神社の標柱が立つ。
現地の写真



近くの痕跡
- 織田信長公居館跡(金華山の麓に発掘された「宮殿」と、山上の斎藤氏の石垣)(地の痕跡・約760m)
- 円徳寺(織田塚と、岐阜城を出た秀信が髪を剃った寺)(死の痕跡・約1.6km)
- 崇福寺(織田信長・信忠父子の廟所と、落城の床板を張った血天井)(死の痕跡・約1.7km)
- 地下に入った羽島用水と、地上に残った一区間(両内野のせせらぎ)(水の痕跡・約12.8km)
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 伊奈波神社公式サイトは、天文8年に斎藤道三が稲葉山を居城とするにあたり、現在の稲葉山の麓の地に奉遷されたと記す。
- 同サイトの境内案内は、丸山を伊奈波神社の旧鎮座地とし、天文8年(1539年)に道三の居城にあたって丸山から現地へ遷されたと記す。
- 同サイトの境内案内は、峯本宮が古くは稲葉山の山頂に祀られており、道三の居城にあたって権現山の山頂へ遷されたと記す。
- 同サイトは、黒龍神社が天文8年(1539年)の遷座以前から当地に鎮座していると記す。
- 境内の標柱の刻字は「福徳 黒龍大神」である(2026-09-12 撮影確認)。
そのため、このページではこうしています
- 山上の城は廃城になり、天守は昭和の再建である。動かされた社のほうは、同じ場所で続いている。
- 移ってきた社と、その前からここに鎮座していたとされる黒龍神社が、いま同じ境内に並んでいる。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 遷座の経緯を記した同時代の一次史料には到達できなかった。神社公式の記述による。
- 丸山の旧鎮座地(丸山神社)の現況を示す公的な案内には到達できなかった。
- 社名の表記が資料で揺れる。境内の標柱は「福徳 黒龍大神」、神社公式の境内案内は「黒龍神社」である。
- 配祭神の表記が神社公式のページ間で揺れる(境内案内は「淳熨斗媛命」、由緒ページは「渟熨斗媛命」)。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
⛩ この土地の福跡
同じ土地の、受け継がれてきた側の顔だ。
- 伊奈波神社(いなばじんじゃ)本殿の奥の黒龍神社をはじめ、いまの境内と信仰の側からたどったページ。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。