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六波羅探題跡・平氏六波羅第|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-08-29

京都市の資料は、鴨川東岸の松原通から七条通にかけての一帯を六波羅と呼び、平安末から鎌倉期にかけての武家の拠点であったと記す。京都市の都市史資料によれば、12世紀初頭に平正盛がこの地に邸宅と御堂を構えたのが始まりで、清盛の代には平家一門の邸宅が軒を連ねた。日本大百科全書は、初め方一町ほどであった邸宅が二十余町にまで広げられたと述べ、六波羅蜜寺は広大な境域内に平家一門の邸館が栄え、その数は五千二百余りに及んだと記す。寿永2年(1183)、平家一門は都を落ちる際に六波羅邸へ自ら火を放ち、寺も諸堂を焼いた。承久3年(1221)の乱の後、幕府軍を率いて入京した北条泰時と時房が六波羅の北と南の館にとどまり乱後の処理に当たったのが、六波羅探題の起源とされる。北方は現在の松原通から五条通、南方は五条通から正面通の範囲に置かれていたと京都市と改訂新版世界大百科事典は記す。当時は単に六波羅と呼ばれることが多く、探題の語がいつ定着したかは資料によって説明が分かれる。元弘3年(1333)、六波羅は攻め落とされ、両探題は都を脱して近江で滅び、邸館は焼失して一帯は田園に戻ったという。いま地上に残るのは石標と町名である。京都市いしぶみデータベースは、六波羅蜜寺の境内に高さ88センチの石標が立ち、此附近の語とともに平氏六波羅第、六波羅探題府と刻まれ、その下は埋もれていると記録する。建立は大正4年(1915)11月、建立者は京都市教育会である。同データベースの古い記録では石標は洛東中学校内にあり、2011年に現在地へ移された。町名にも名残があり、京都市は、多門町を邸の惣門に、門脇町を平教盛の門脇殿に、池殿町を池禅尼の池殿にちなむと説明する。六波羅という地名の由来は、東山の麓の原の意とも、六波羅蜜寺によるとも、葬送地にちなむ髑髏原によるともいわれ、確定しがたいと日本歴史地名大系は記す。

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