六波羅探題跡・平氏六波羅第|何があった場所か
京都市の資料は、鴨川東岸の松原通から七条通にかけての一帯を六波羅と呼び、平安末から鎌倉期にかけての武家の拠点であったと記す。京都市の都市史資料によれば、12世紀初頭に平正盛がこの地に邸宅と御堂を構えたのが始まりで、清盛の代には平家一門の邸宅が軒を連ねた。日本大百科全書は、初め方一町ほどであった邸宅が二十余町にまで広げられたと述べ、六波羅蜜寺は広大な境域内に平家一門の邸館が栄え、その数は五千二百余りに及んだと記す。寿永2年(1183)、平家一門は都を落ちる際に六波羅邸へ自ら火を放ち、寺も諸堂を焼いた。承久3年(1221)の乱の後、幕府軍を率いて入京した北条泰時と時房が六波羅の北と南の館にとどまり乱後の処理に当たったのが、六波羅探題の起源とされる。北方は現在の松原通から五条通、南方は五条通から正面通の範囲に置かれていたと京都市と改訂新版世界大百科事典は記す。当時は単に六波羅と呼ばれることが多く、探題の語がいつ定着したかは資料によって説明が分かれる。元弘3年(1333)、六波羅は攻め落とされ、両探題は都を脱して近江で滅び、邸館は焼失して一帯は田園に戻ったという。いま地上に残るのは石標と町名である。京都市いしぶみデータベースは、六波羅蜜寺の境内に高さ88センチの石標が立ち、此附近の語とともに平氏六波羅第、六波羅探題府と刻まれ、その下は埋もれていると記録する。建立は大正4年(1915)11月、建立者は京都市教育会である。同データベースの古い記録では石標は洛東中学校内にあり、2011年に現在地へ移された。町名にも名残があり、京都市は、多門町を邸の惣門に、門脇町を平教盛の門脇殿に、池殿町を池禅尼の池殿にちなむと説明する。六波羅という地名の由来は、東山の麓の原の意とも、六波羅蜜寺によるとも、葬送地にちなむ髑髏原によるともいわれ、確定しがたいと日本歴史地名大系は記す。
時のながれ
- 天永1年(1110) — 改訂新版世界大百科事典は、平正盛が六波羅蜜寺内に阿弥陀堂を建て、この頃から六波羅の地名が多く用いられるようになったと記す。
- 寿永2年(1183) — 京都市は、平家一門が安徳天皇と神器を奉じて都を落ちる際、六波羅邸に自ら火を放ち邸宅は灰燼に帰したと記す。
- 文治1年(1185) — 京都市は、平家都落ちの後に六波羅の地が源頼朝に与えられ、北条時政の上洛以来この地に京都守護の庁舎が築かれたと記す。
- 建久1年(1190) — 改訂新版世界大百科事典は、源頼朝が平頼盛邸の跡に新邸を造り、上洛の際の宿所としたと記す。
- 建仁3年(1203) — 改訂新版世界大百科事典は、頼朝の六波羅邸が火災で焼失して再建されず、六波羅探題はこの跡地に建てられたものと思われると記す。
- 承久3年(1221) — 京都市は、承久の乱の後に北条泰時と時房が六波羅の北と南の館にとどまったのが六波羅探題の起源と記す。
- 安貞2年(1228) — 京都市埋蔵文化財研究所は、鴨川の出水で六波羅蜜寺の西門が傾き倒れたとする記録を引く。
- 元弘3年(1333) — 京都市は、足利尊氏らに攻められて六波羅探題が陥落したと記し、改訂新版世界大百科事典は両探題が近江の番場で滅んだと記す。
- 大正4年(1915) — 京都市いしぶみデータベースは、高さ88センチの石標が11月に建てられ、建立者は京都市教育会であると記録する。
- 2011年 — 京都市いしぶみデータベースは、洛東中学校内にあった石標がこの年に六波羅蜜寺へ移されたと記録する。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 京都市いしぶみデータベースのHI033は、石標の所在地を東山区六原通松原下る西側の六波羅蜜寺内とし、備考にこの碑は2011年に現在地である六波羅蜜寺に移されたと明記する。
- 同データベースの旧記録は、同じ石標の所在地を東山区六原通五条上る東側の洛東中学校内とし、2010年時点で撤去されていたと記す。
- 京都市の都市史資料は、北方が五条末である現在の松原通から六条坊門末である現在の五条通、南方が六条坊門末から六条末である現在の正面通に置かれたとし、改訂新版世界大百科事典も同じ範囲を記す。
- 京都市の都市史資料は、寿永2年(1183)に平家一門が都を落ちる際、六波羅邸に自ら火を放ったと記す。
- 六波羅蜜寺の公式サイトは、広大な境域内に平家一門の邸館が栄えその数は5200余りに及び、寿永2年(1183)の兵火で諸堂が類焼したと記す。
- 京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査報告2011-6および2013-9は、調査地を東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町82の元六原小学校内とし、京都市遺跡地図台帳では六波羅蜜寺境内および六波羅政庁跡にあたると記す。
- 同報告2011-6は、検出した鎌倉時代の石組井戸や土坑について、六波羅蜜寺に関連するものか六波羅政庁関係のものかは不明と記す。
- 改訂新版世界大百科事典は、元弘3年(1333)に六波羅が攻略され、両探題が近江の番場で滅び、寺院を残して邸館は焼失し一帯が田園になったと記す。
そのため、このページではこうしています
- ピンは京都市いしぶみデータベースが記録する石標の座標である北緯34度59分49.0秒、東経135度46分24.5秒に置いた。
- 六波羅蜜寺の境内は公式サイトによれば8時30分に開門し16時30分に閉門するため、開門時間内であれば石標を見られる場所と判断した。
- 発掘調査が行われた元六原小学校の敷地は学校用地であるため、訪問先の案内から外した。
- 発掘で見つかった鎌倉時代の遺構は、報告書の言い方どおり寺に関わるか政庁に関わるか不明という形で紹介した。
- 石標の寄附者の個人名は公開の記述から外した。
- 六波羅の地名由来は、日本歴史地名大系が三説を挙げて確定しがたいとするため、その言い方のまま一文で示した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 石標が境内のどの位置に立つかを、京都市の資料では確認できなかった。
- 元弘3年の陥落の月日について、公的機関の資料では確認できなかった。
- 六波羅探題の建物そのものの遺構は、隣接地の発掘調査でも確認されていない。
- 轆轤町の町名がかつて髑髏町であったとする説は、日本歴史地名大系の轆轤町の項では確認できなかった。同項は坂面町および坂面轆轤町からの変遷を記す。
- 石標のそばに説明板があるかどうかは確認できなかった。
- 建立が大正4年11月である理由は確認できなかった。
- 石標の所在地。日本大百科全書は洛東中学校内に石碑があるとするが、京都市いしぶみデータベースは2011年に六波羅蜜寺へ移されたと記録し、京都観光Navi、京都市の都市史資料、京都新聞も六波羅蜜寺境内とする。
- 石標の建立者。京都市いしぶみデータベースの新しい記録は京都市教育会とし、古い記録は寄附者の個人名を建立者とする。
- 探題という呼称の時期。京都市いしぶみデータベースは南北朝以降のものとし、改訂新版世界大百科事典は鎌倉末期の沙汰未練書が初見とする。
- 平正盛の造営。京都市の都市史資料は珍皇寺付近に邸宅と御堂を構えたとし、改訂新版世界大百科事典は天永1年(1110)に六波羅蜜寺内に阿弥陀堂を建立したとする。
- 平家の邸館の数。六波羅蜜寺は5200余りとし、改訂新版世界大百科事典は一族郎党の館は数千に及んだという。
- 六波羅の範囲。日本歴史地名大系と改訂新版世界大百科事典は松原通から七条通までとし、京都新聞は松原通から六条通までとする。
参考・出典
- いしぶみデータベース HI033 平氏六波羅第・六波羅探題府址
京都市(フィールド・ミュージアム京都) - いしぶみデータベース HI033 旧データ
京都市(フィールド・ミュージアム京都) - 都市史09 六波羅
京都市(フィールド・ミュージアム京都) - 六波羅探題府跡
京都観光Navi(京都市公式観光サイト) - 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 2011-6 六波羅蜜寺境内・六波羅政庁跡
公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 - 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 2013-9 六波羅蜜寺境内・六波羅政庁跡
公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 - 六波羅探題(改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書ほか)
コトバンク - 六波羅(日本歴史地名大系・改訂新版世界大百科事典ほか)
コトバンク - 六波羅蜜寺の歴史
補陀洛山 六波羅蜜寺 - 洛中洛外を(もっかい)(一人で)歩く 六波羅探題って?
京都新聞
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近くの痕跡
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