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方広寺大仏殿跡(京の大仏)|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-08-29

方広寺大仏殿跡は、豊臣秀吉が造立した大仏と、それを納めた大仏殿が建っていた場所である。京都市の資料は、天正14年(1586)に秀吉が奈良の大仏に匹敵する大仏を東山山麓に建てる計画を立て、高さ六丈三尺(約19メートル)の木製金漆塗坐像を造営したと説明する。大仏殿は高さ二十五間(約49メートル)、桁行四十五間二尺七寸(約88メートル)、梁行約二十七間六尺三寸(約54メートル)で、文禄4年(1595)頃に完成したという。京都市埋蔵文化財研究所の資料は、この大仏殿を東大寺の大仏殿をしのぐ巨大建造物と表現する。境内は現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館を含み、現存する石垣から南北約260メートル、東西約210メートルの規模と推定されている。大仏は長く残らなかった。京都市の資料は、慶長元年(1596)の地震で開眼供養前の大仏が倒れ、慶長7年(1602)には鋳造中の大仏から出火して大仏殿が炎上し、寛政10年(1798)には落雷で本堂と楼門を焼失したと述べる。天保年間に造られた半身の大仏像も、昭和48年(1973)の火災で失われた。文化庁の資料は、この一帯が国の史跡である方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔に当たり、昭和44年(1969)4月12日に指定され、平成26年(2014)10月に追加指定と名称変更が行われたと説明する。外周の石塁は一枚岩の巨岩を用いたもので、正面にあたる西面と北面、南面の一部が地上に残る。京都国立博物館の資料は、この石垣が平たい板状の岩を積み上げたもので、裏込めに石仏や石塔が大量に用いられていたと述べる。豊国神社の東隣にある大仏殿跡緑地では、平成12年(2000)の発掘調査で基壇上面の四半敷き、南辺の地覆石と階段跡、大仏台座の石組みが検出され、基壇の高さは約1.8メートルと判明した。遺構は地下に保存されている。方広寺には慶長19年(1614)の梵鐘が現存し、京都市の資料は重要文化財と記す。国立公文書館の資料は、鐘銘に「関東不吉之語」があるとして開眼供養の延期が命じられ、「国家安康」「君臣豊楽」の文字が問題となったと説明する。

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