方広寺大仏殿跡(京の大仏)|何があった場所か
方広寺大仏殿跡は、豊臣秀吉が造立した大仏と、それを納めた大仏殿が建っていた場所である。京都市の資料は、天正14年(1586)に秀吉が奈良の大仏に匹敵する大仏を東山山麓に建てる計画を立て、高さ六丈三尺(約19メートル)の木製金漆塗坐像を造営したと説明する。大仏殿は高さ二十五間(約49メートル)、桁行四十五間二尺七寸(約88メートル)、梁行約二十七間六尺三寸(約54メートル)で、文禄4年(1595)頃に完成したという。京都市埋蔵文化財研究所の資料は、この大仏殿を東大寺の大仏殿をしのぐ巨大建造物と表現する。境内は現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館を含み、現存する石垣から南北約260メートル、東西約210メートルの規模と推定されている。大仏は長く残らなかった。京都市の資料は、慶長元年(1596)の地震で開眼供養前の大仏が倒れ、慶長7年(1602)には鋳造中の大仏から出火して大仏殿が炎上し、寛政10年(1798)には落雷で本堂と楼門を焼失したと述べる。天保年間に造られた半身の大仏像も、昭和48年(1973)の火災で失われた。文化庁の資料は、この一帯が国の史跡である方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔に当たり、昭和44年(1969)4月12日に指定され、平成26年(2014)10月に追加指定と名称変更が行われたと説明する。外周の石塁は一枚岩の巨岩を用いたもので、正面にあたる西面と北面、南面の一部が地上に残る。京都国立博物館の資料は、この石垣が平たい板状の岩を積み上げたもので、裏込めに石仏や石塔が大量に用いられていたと述べる。豊国神社の東隣にある大仏殿跡緑地では、平成12年(2000)の発掘調査で基壇上面の四半敷き、南辺の地覆石と階段跡、大仏台座の石組みが検出され、基壇の高さは約1.8メートルと判明した。遺構は地下に保存されている。方広寺には慶長19年(1614)の梵鐘が現存し、京都市の資料は重要文化財と記す。国立公文書館の資料は、鐘銘に「関東不吉之語」があるとして開眼供養の延期が命じられ、「国家安康」「君臣豊楽」の文字が問題となったと説明する。
時のながれ
- 天正14年(1586) — 京都市の資料は、秀吉が奈良の大仏に匹敵する大仏を東山山麓に建てる計画を立てたと説明する。
- 天正16年(1588) — 京都市埋蔵文化財研究所の年表は、三十三間堂の北側で大仏殿の工事が始まったと記録する。
- 文禄4年(1595) — 文化庁の資料は、方広寺がほぼ完成し、秀吉が父母の法会を大仏経堂で行ったと説明する。
- 慶長元年(1596) — 京都市の資料は、地震により開眼供養前の大仏が倒壊したと述べる。
- 慶長7年(1602) — 京都市の資料は、鋳造中の大仏から出火して大仏殿が炎上したと述べる。
- 慶長17年(1612) — 京都市埋蔵文化財研究所の資料は、秀吉の遺志を継いだ秀頼が大仏を完成させたと説明する。
- 慶長19年(1614) — 国立公文書館の資料は、鐘銘に関東不吉之語があるとして大仏の開眼供養の延期が命じられたと説明する。
- 慶長20年(1615) — 京都市埋蔵文化財研究所の年表は、大坂夏の陣により豊臣氏が滅亡したと記録する。
- 寛文2年(1662) — 文化庁の資料は、地震での破損を機に大仏が江戸幕府の命により鋳潰され、銅銭に改鋳されたと説明する。
- 寛文7年(1667) — 京都市の資料は、大仏がこの年に造り直されたと述べる。
- 寛政10年(1798) — 京都市の資料は、大仏殿への落雷で本堂と楼門を焼失し、木像の大仏も失われたと述べる。
- 昭和44年(1969) — 文化庁の資料は、方広寺の石塁が2基の石塔と合わせて国の史跡に指定されたと記録する。
- 昭和48年(1973) — 京都市の資料は、出火により半身の大仏と仮の大仏殿が焼失したと述べる。
- 平成12年(2000) — 京都市埋蔵文化財研究所の資料は、大仏殿跡の調査で基壇上面の四半敷きや大仏台座の石組みを確認したと説明する。
- 平成26年(2014) — 文化庁の資料は、大仏殿跡が追加指定され、名称が方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔に変更されたと説明する。
- 令和3年(2021) — 京都市埋蔵文化財研究所の資料は、博物館構内の調査で秀吉期の築地塀に伴う礎石2基を確認し、現地保存が決まったと説明する。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 文化庁の文化遺産オンラインの史跡解説で、正式名称が方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔、所在地が京都市東山区茶屋町、管理団体が京都市であることを確認した。
- 同じ解説で、昭和44年4月12日に国の史跡に指定され、平成26年10月に追加指定と名称変更が行われたことを確認した。
- 京都市の都市史19 大仏殿で、大仏の高さが六丈三尺(約19メートル)、大仏殿が高さ約49メートル・桁行約88メートル・梁行約54メートルで文禄4年頃に完成したことを確認した。
- 同じページで、方広寺に現存する梵鐘が重要文化財であること、寛政10年の落雷で本堂と楼門を焼失したことを確認した。
- 京都市埋蔵文化財研究所のリーフレット京都No.151で、2000年の調査により基壇上面の四半敷きや大仏台座の石組みが検出され、基壇の高さが約1.8メートルと判明したことを確認した。
- 同研究所の2021年の広報発表資料で、大仏殿が東大寺の大仏殿をしのぐ巨大建造物と説明され、秀吉期の築地塀に伴う礎石2基が現地保存となったことを確認した。
- 京都国立博物館の博物館ディクショナリーで、石塁が平たい板状の岩を積み上げたもので、裏込めに石仏や石塔が大量に用いられていたことを確認した。
- 国立公文書館の展示解説で、鐘銘に関東不吉之語があるとして大仏の開眼供養の延期が命じられたことを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 大仏の大きさは、複数の資料が一致する六丈三尺(約19メートル)だけを採用した。
- 奈良の大仏との比較は、匹敵という表現と、大仏殿がしのぐという表現の両方を並べた。
- 寛文年間の経緯は一方に決めず、鋳潰しと造り直しの両方を年表に入れた。
- 秀吉の死去年は、2系統の資料が一致する慶長3年(1598)を採用した。
- 度重なる焼失は、地震と落雷と失火という資料の記述のとおりに並べた。
- 史跡に含まれる2基の石塔は、指定の構成要素という事実のみ挙げた。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 梵鐘の重要文化財指定の年月日は、公的資料では確認できなかった。
- 梵鐘の高さや重量の数値は、公開されている情報の間で大きく食い違っており、公的資料では確認できなかった。
- 平成26年の追加指定について、文化庁の資料は月までしか示しておらず、告示の日付は確認できなかった。
- 天保年間に造られた半身の大仏像の高さは、公的資料では確認できなかった。
- 大仏殿跡緑地の管理者や開放時間は、公的資料では確認できなかった。
- 慶長元年(文禄5年・1596)の地震の被害について、文化庁の資料は大仏殿と中門は無事で大仏が大破したとし、京都市の資料は大仏と築地が倒壊したとする。
- 寛文2年(1662)以降について、文化庁の資料は大仏が江戸幕府の命で鋳潰され銅銭に改鋳されたとし、京都市の資料は寛文7年(1667)に造り直されたとする。京都市埋蔵文化財研究所の年表は鋳潰したうえで木像仏に作り替えたと両方を挙げる。
- 奈良の大仏との比較について、京都市と京都国立博物館の資料はいずれも奈良の大仏に匹敵する大仏と表現する一方、京都市埋蔵文化財研究所の資料は大仏殿を東大寺の大仏殿をしのぐ巨大建造物と表現する。
- 京都市埋蔵文化財研究所の年表は秀吉の死去を慶長4年の行に置くように読めるが、文化庁と京都市の資料はいずれも慶長3年(1598)とする。
参考・出典
- 方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔
文化庁 文化遺産オンライン - 都市史19 大仏殿
京都市 - 博物館ディクショナリー 史跡・方広寺石塁
京都国立博物館 - リーフレット京都No.151 京の大仏さん 方広寺大仏殿跡の調査
公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 - 方広寺跡発掘調査広報発表資料 2021年2月10日
公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 - 方広寺鐘銘事件
国立公文書館 - 京都大仏鐘
東京国立博物館 文化遺産オンライン
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近くの痕跡
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