疎開道路とは — 空襲の延焼を防ぐため家を壊してできた道(大阪)
太平洋戦争中、空襲の延焼防止のための建物疎開(強制取り壊し)で防火帯とされた土地が戦後に道路となり、今も「疎開道路」の通称で呼ばれていると伝わる。東成区中道から生野区南部へ延びる南北の道。
時のながれ
- 1937年(昭和12年) — 現在の道路にあたる区間が都市計画事業の街路として認可されたとされる。
- 1944年(昭和19年) — 空襲による延焼防止のための防火空地帯として建物疎開が実施され、幅12〜13mにわたり家屋の強制取り壊しが行われたと伝わる(2〜6月頃)。住民は立ち退きを強いられた。
- 戦後 — 取り壊し跡の空地が道路として活用され、「疎開道路」という通称が定着したとされる。
- 現在 — 生野区の地域資料や道路整備事業の関連資料に「疎開道路」の名が残り、通称として使われ続けていると伝わる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 「疎開道路」という通称が使われているのは、東成区から生野区へ抜ける大阪市道上新庄生野線の区間だと確認できた。
そのため、このページではこうしています
- ピンは勝山通との交差点付近(生野区役所の西およそ250m)に置いた推定地点で、道路全体を指すものではない。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- この道路の成り立ちを説明した自治体の一次資料には到達できていない。
- 西成区でこの通称は確認できなかった。通称の使用が確認できた範囲は、生野区の市道区間までである。
参考・出典
- 生野区の名所|生野の財産(疎開道路の項)
一般社団法人 生野産業会 - 戦争の爪あと 生野区の誕生と疎開道路
大阪教育文化センター(『生野区50年の歩み』等に基づく) - 疎開道路 - Wikipedia
Wikipedia(出典: 『東成区史』1957、『猪飼野郷土誌』1997) - 大阪市道上新庄生野線 - Wikipedia
Wikipedia
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 御勝山古墳(大坂冬の陣・徳川秀忠本陣跡)(戦の痕跡・約476m)
- つるのはし跡(猪甘津の橋・鶴橋地名の由来)(地の痕跡・約665m)
- 四天王寺(上町台地の霊的中心)(方位の痕跡・約1.3km)
- 茶臼山(大坂の陣 両軍本陣跡・天王寺公園)(戦の痕跡・約1.8km)