平将門の首塚(将門塚)|何があった場所か
平将門の首を供養したと伝わる塚。天慶3年(940年)に討たれた将門の首が京から白光を放って飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎——現在の大手町——に落ちたという伝承で知られる。昭和46年に東京都旧跡に指定され、超高層ビル街の一角で保存会により手厚く守られ、今も参拝が絶えない。

近くの痕跡
- 「両国」の地名由来(両国橋)(地の痕跡・約2.6km)
- 「鳥越」の地名由来と鳥越の丘(地の痕跡・約2.7km)
- 回向院(両国・万人塚に始まる寺)(死の痕跡・約2.8km)
- 小名木川(塩の道・万年橋)(水の痕跡・約2.9km)
時のながれ
- 940年(天慶3) — 平将門が藤原秀郷・平貞盛らに討たれる。京で晒された首が白光を放って東方へ飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちたと伝わる。土地の人々が首を洗い清め、塚を築いて供養したとされる
- 1303〜1309年(嘉元〜延慶) — 遊行二代・他阿真教上人が嘉元(1303)の年に塚を修復して供養し、延慶2年(1309)には塚の傍の社を修復して将門の霊を相殿に祀り、神田明神と改称したと保存会は記す。この地は神田明神の旧地にあたる
- 1923年(大正12)以降 — 関東大震災後、大蔵省仮庁舎建設に伴い塚の一部が取り崩される。その後関係者の不幸が相次いだと語られ、慰霊祭が営まれた
- 昭和20年代(戦後) — 米進駐軍のモータープール造成の整地中にブルドーザーの横転死亡事故が起き、地元の陳情により塚の取り壊しは取りやめられたと保存会は記す
- 1960年(昭和35) — 史蹟将門塚保存会が正式結成される
- 1971年(昭和46) — 東京都旧跡に指定される
- 現代 — 大手町の再開発と共存しながら維持され、ビル街の谷間で参拝が絶えない
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 将門塚保存会の公式サイトで、由来として伝わる話、保存会の結成(昭和35年)、東京都の旧跡指定(昭和46年3月29日付。保存会への通知は同年4月1日)、一般社団法人化(令和5年11月)を確認した。第6次の改修工事が2020年11月から2021年4月末まで行われたことは、Wikipedia(補助資料)に記載がある。
- 保存会の資料は、戦後の整地中にブルドーザーの横転事故が起き、その後、地元の陳情で塚が残された経緯を記している。
そのため、このページではこうしています
- 大正期の大蔵省仮庁舎にまつわる逸話は、伝えられている話であり、確認された事実ではない。
- 現在も供養と参拝が続く場所である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- この事故と塚との因果関係を示す史料は確認できていない。保存会に伝わる話であることを示す出典はあるが、超自然的な因果を裏づける資料はない。
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 平将門公|将門塚保存会
一般社団法人 史蹟将門塚保存会(公式) - 将門塚(スポット紹介)
千代田区観光協会(公式) - 将門塚 - Wikipedia
Wikipedia(補助資料)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :編集部の調査メモの2文と時のながれの2項目を、将門塚保存会のサイトの記述に合わせて改めた。主な変更は、東京都の旧跡指定の日を4月1日から3月29日とし、4月1日は保存会への通知の日と添えたこと、第6次の改修の記載は保存会のサイトに無く、Wikipediaによると改めたことだ。時のながれは、塚の修復(1303年)と神田明神への合祀(1309年)を年ごとに分け、戦後の事故の項の「区画整理工事」を保存会の原文どおり米進駐軍のモータープール造成の整地とした。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。