歴史の痕跡
首塚は、なぜ大手町に残っているのか — 平将門の首塚
将門の首が飛んで柴崎(いまの大手町)に落ち、土地の人が塚を築いて供養したと伝わる。戦後の工事中にブルドーザーが横転して運転手が亡くなり、整地工事が中止されたことは保存会が公式に記している。ただ、塚を実際に維持してきたのは保存会と周辺企業と地元の人々の手だ。
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東京都千代田区大手町。日本でもっとも地価の高い場所のひとつだ。三菱地所やみずほ銀行の本社ビルが並ぶその一角に、石の塚がある。
平将門の首塚だ。
伝わっていること — 首が飛んできた
天慶3年(940年)、関東で兵を挙げた平将門が藤原秀郷・平貞盛らに討たれた。首は京へ送られて晒される。
ここから先が伝承だ。史蹟将門塚保存会の公式サイトは、その首が「一夜白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。その音は物凄く、関八州にとどろき、三日三晩大地は鳴動した」と記す。柴崎が、いまの大手町にあたる。
土地の人々は首を井戸で洗い清め、塚を築いて供養したとされる。これが将門塚の始まりだと伝えられている。
嘉元年間(1303〜05年)には遊行二代・他阿真教上人が将門の霊を回向し、神田明神に配祀したと伝わる。この地は、もともと神田明神があった場所だ。神社は江戸城の拡張に伴って現在の外神田へ移ったが、塚はここに残った。
記録されていること — 工事が二度止まった
伝承と別に、近代以降の出来事は資料に残っている。
大正12年(1923年)の関東大震災のあと、この一帯に大蔵省の仮庁舎が建てられ、塚の一部が取り崩された。その後、関係者の不幸が相次いだと語られ、慰霊祭が営まれた。ここは「語られ」の領域だが、慰霊祭が実際に行われたことは記録されている。
より確度が高いのは戦後の話だ。保存会の公式サイトは、GHQ接収下で行われた区画整理工事の最中、ブルドーザーが「突然横転し、運転手は投げ出されて打ちどころが悪かったのか、病院に運ばれたがまもなく死亡した」と明記している。この事故をきっかけに塚の位置が改めて認識され、地元の陳情によって整地工事は中止された。
事故が起きたこと、工事が止まったこと、この2つは保存会が公式に記している。
守られてきた記録
昭和35年(1960年)7月、史蹟将門塚保存会が正式に結成された。令和5年(2023年)11月には一般社団法人になっている。
昭和46年(1971年)4月1日、東京都の旧跡に指定された。周辺のビルは何度も建て替わり、大手町は再開発を繰り返してきたが、塚は動いていない。
大手町の地価を考えれば、ここに塚が残り続けていること自体が、そうとうに異例だ。「祟りを恐れて手を出せない」という説明のされ方をよくするけれど、実際に塚を維持しているのは保存会と周辺企業と地元の人々の手だ。草を刈り、花を供え、法人を作って管理を続ける——千年以上、その積み重ねでここにある。
訪ねるときに
ここは現役の慰霊・信仰の場だ。
大手町駅から地上に出てすぐ、ビルの谷間の小さな敷地に、線香と花が絶えない。訪ねるなら、静かに手を合わせて帰るのがいい。
場所と資料は平将門の首塚のページにまとめてある。
この土地に、何があったか。→ 痕跡マップで調べる
この記事の場所のそばにある痕跡
- 「両国」の地名由来(両国橋)(平将門の首塚 から 地の痕跡・約2.6km)
- 「鳥越」の地名由来と鳥越の丘(平将門の首塚 から 地の痕跡・約2.7km)
- 回向院(両国・万人塚に始まる寺)(平将門の首塚 から 死の痕跡・約2.8km)
- 小名木川(塩の道・万年橋)(平将門の首塚 から 水の痕跡・約2.9km)
平将門の首塚の周りに、ほかに何が残っているか。
平将門の首塚のまわりをひらく →参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 平将門公|将門塚保存会 » 保存会について|東京都千代田区大手町1-2-1
masakado-zuka.jp - 将門塚(スポット紹介)|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda
visit-chiyoda.tokyo - 将門塚 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :本文の説明の文を4か所、削るか短く改めた。年代・出典・引用の内容は変えていない。
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