歴史の痕跡
処刑場跡地とは — なぜ街道沿いに置かれたのか【大阪・千日前ほか】
江戸の刑場は、江戸に出入りする者が必ず通る道沿いに置かれた。見せしめのためで、死者を弔う寺院が併設されることも多かった。大阪の千日前にも刑場と墓所があり、跡地は興行街を経て繁華街になった。ただし跡地の正確な境界はほとんどの場所で資料が一致せず、建物単位では特定できない。
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引っ越し先の住所を調べていたら「昔ここは処刑場だった」という書き込みに行き当たった。あるいは旅先のホテルの立地について、似たような話を聞いた。そういう人がこのページにたどり着いていると思う。江戸時代の刑場は、都市の中心ではなく、街道の出入り口や町外れに意図的に置かれていた。そして跡地の正確な境界は、今もほとんどの場所で資料が一致していない。
刑場が街道沿いにあった理由
江戸時代の刑場は、隠すためではなく、見せるために作られている。
江戸には、大経寺が挙げる三か所の刑場があった。鈴ヶ森刑場跡に建つ大経寺は、東海道沿いの鈴ヶ森刑場(品川区南大井)、日光街道沿いの小塚原刑場(荒川区南千住)、八王子・浅川河原の大和田刑場(八王子市大和田町)の3か所を挙げている。方角は南・北・西とばらばらだが、共通しているのは「江戸に出入りする者が必ず通る道沿い」という立地だ。
ただし数え方と呼び方は資料によって揺れる。大経寺自身は「3ヶ所の処刑場」と記していて、「三大刑場」という言い方はしていない。江戸の内側だけを数えて鈴ヶ森と小塚原の2か所とする資料もある。
理由は単純で、見せしめだった。江戸へ出入りする者が必ず通る場所に置けば、それだけ多くの目に触れる。刑場を町の奥に隠さず、玄関口に置く。都市計画としては合理的で、同時に相当に露骨なメッセージでもある。
同じ構造は京都にもある。東海道が九条山を越える峠道沿いにあった粟田口刑場と、鴨川の河原そのものが刑と晒しの場になったと伝わる六条河原は、どちらも町の内と外が切り替わる境界にあたる。京都の二か所の詳細は「京都の処刑場跡はどこにあったのか」にある。

もう一つ見落とされがちな役割が供養だ。刑場には死者を弔う寺院がセットで併設されることが多い。小塚原刑場では1667年(寛文7年)、本所回向院の住職・弟誉義観が死者の埋葬供養のために常行堂を建て、これが後の南千住回向院になった。処刑と供養は、同じ場所で表裏一体に営まれていた。

江戸の三か所の刑場、今どうなっているか
鈴ヶ森刑場は1651年(慶安4年)開設、1871年(明治4年)閉鎖。220年間で10万人とも20万人ともいわれる人数が処刑されたというが、この数字自体は正確な記録に基づくものではなく、あくまで伝えられている規模感として捉えるべきだろう。跡地は現在、隣接する大経寺の境内になっており、火炙用の鉄柱や磔用の礎石が今も残る。境内は見学できる場所として整備されている。
小塚原刑場は同じく1651年創設、1873年(明治6年)廃止。創設から廃止までの間に20万人以上が処刑されたとされる。跡地は南千住駅西側、常磐線と東京メトロ日比谷線に挟まれた延命寺の敷地内にある。明治期に鉄道が敷地の中央を通ったことで、北側が回向院、南側が延命寺として分断されたという経緯も興味深い。いまも南側の延命寺・首切地蔵と北側の小塚原回向院に分かれて供養が続いている。三か所それぞれの現在地と、そこに何が残っているかは「江戸の刑場跡はいまどこに — 鈴ヶ森・小塚原・伝馬町牢屋敷の現在」にある。
伝馬町牢屋敷は少し性質が違う。ここは牢獄そのもので、斬首(獄門・死罪・下手人)や敲(たたき)、入れ墨刑の執行場所だった。安政の大獄で吉田松陰が刑死したのもここで、跡地の十思公園には「松陰先生終焉之地」の碑が立つ。牢屋敷は1875年(明治8年)まで機能し、現在は東京都指定文化財(旧跡)として公園の一部にその痕跡を残している。

三つに共通するのは、どこも「跡地の正確な範囲」を厳密に確定できていない点だ。当時の検地図と現在の地番はそのまま重ならないし、寺の境内・公園・駅前広場という形で分散して痕跡が残っているにすぎない。「ここからここまでが刑場だった」と線を引ける場所は、実は一つもない。
大阪の千日前 — 繁華街の下にあった刑場
大阪にも同じ構造の場所がある。千日前だ。大坂には千日・鳶田のほかに野江・三軒家を加えた四つの刑場があったと国立国会図書館のレファレンス記録は整理していて、四つの位置関係は「大坂の四刑場はどこにあった?」にある。
江戸時代、現在の千日前一帯(当時の難波村北端)には「千日刑場」(別名・道頓堀刑場)と「千日墓所」が置かれていた。国立国会図書館レファレンス協同データベースが藤井嘉雄『大坂町奉行と刑罰』を典拠に紹介するところでは、元禄15年(1702年)に道頓堀刑場で獄門になった記録があり、千日刑場がかつて道頓堀刑場とも呼ばれていたことが知られるという。刑場が明治初年(1870年から1874年頃、資料によって年次に幅がある)に廃止された後、墓地は阿倍野方面へ移転。跡地はしばらく買い手がつかず塩漬けになっていたが、やがて見世物小屋・興行街として再開発され、今の繁華街につながっていく。


刑場・墓所という土地の履歴があったからこそ、後に法善寺や竹林寺が墓地脇に建立され、死者供養の「千日回向」が営まれた。これが「千日前」という地名の由来になったという説がある。処刑の記憶を塗り替えたのではなく、供養の場としてその上に町が積み重なっていった、という方が実態に近い。
この土地の詳しい変遷は「千日前 刑場・墓所跡」のページにまとめてある。
鳶田(飛田) — 「刑場跡=遊郭跡」という通説の危うさ
千日前と並んで大坂にもう一つあった刑場が、鳶田(とびた)刑場だ。場所は摂州西成郡今宮村鳶田、現在の西成区太子一丁目付近にあたる。国立国会図書館のレファレンス記録は、藤井嘉雄『大坂町奉行と刑罰』を引いて、鳶田(飛田)刑場では磔・火罪などの死刑が執行され、なかでも火罪は主に鳶田で執行されたと紹介している。同じ記録は墓地には触れていないが、文化3年(1806年)の古地図「増脩改正攝州大阪地圖」には「鳶田墓」「刑場」の記載が確認できる。この鳶田の墓は大坂七墓の一つに数えられると伝わる(七墓の構成は資料によって異なる。「うめきたは、墓所だった」を参照)。
ここでインターネット上によく流布しているのが「刑場・墓地の跡地に飛田遊郭ができた」という説だ。だが、古地図まで遡って考証している郷土史ブログ(米澤光司氏)を読むと、話はそう単純ではない。同ブログは、江戸時代の刑場の墓・火葬場は郊外の阿倍野墓地に集約されたという記録を引き、1903年(明治36年)の地図では鳶田の墓が跡形もなく更地になっていたと書く。一方、飛田遊廓は、1912年(明治45年)に焼失した難波新地乙部遊廓の代替地として、1916年(大正5年)に遊廓の指定を受けた。開廓式は1918年(大正7年)12月で、場所は天王寺村字堺田、現在の西成区山王三丁目だ。同ブログの古地図考証では、鳶田墓地・刑場は紀州街道沿いの道外れ(現在のJR新今宮駅南側、太子一丁目付近)にあり、飛田遊廓(堺田)から見てちょうど西北の方角にあたる、つまり遊廓の敷地とは別の町域だとされている。

つまり「刑場・墓地の跡地=遊郭」という等式は、少なくとも現時点で確認できる資料の範囲では成り立たない。近い土地ではあっても、町域としては別だという考証があるということだ。この一帯を調べる時は、鳶田(太子一丁目)と飛田遊廓(山王三丁目)を混同しないことが最初の一歩になる。


年表を含めた詳細は「鳶田(飛田)刑場・墓所跡」を参照してほしい。
「跡地のホテル」を探している人へ
このページに来た人の中には、もっとピンポイントに「自分が泊まる/住む建物が処刑場の跡地なのか」を知りたい人もいるはずだ。
それに一言で答えるのは難しい。江戸の三か所の刑場でさえ、寺の境内や公園という点でしか痕跡を追えず、面としての正確な境界は資料間で一致しない。まして千日前や鳶田のように、明治期の移転・区画整理・戦災・再開発を何度も経た土地となると、「この建物の真下」まで特定できる一次資料はほぼ残っていない。
だから「跡地の正確な範囲は諸説あり、断定はできない」というのが答えになる。分かるのは「この町域一帯に、かつて刑場・墓所があった」という広がりの単位までだ。それ以上を断定するサイトを見かけたら、むしろ出典を疑ったほうがいい。

気になる場所の痕跡濃度を見てみる
処刑場跡は、水・戦・死・地・方位・噂という土地の記憶の中でも、供養の歴史が特に色濃く残る場所だ。
あなたの住所の周りに、どんな痕跡が残っているか。→ 痕跡マップで痕跡濃度を測ってみる
この記事の場所のそばにある痕跡
- 車石(旧東海道の牛車道)(粟田口刑場跡 から 地の痕跡・約600m)
- 蹴上インクライン(琵琶湖疏水)(粟田口刑場跡 から 水の痕跡・約840m)
- 岡崎(第4回内国勧業博覧会の跡地と平安神宮)(粟田口刑場跡 から 地の痕跡・約1.6km)
- 鳥辺野(平安京の葬送地・東山)(粟田口刑場跡 から 死の痕跡・約1.6km)
粟田口刑場跡の周りに、ほかに何が残っているか。
粟田口刑場跡のまわりをひらく →参考・出典
8件出典に基づいて掲載している
- 鈴ヶ森刑場 - Wikipedia
ja.wikipedia.org - 小塚原刑場 - Wikipedia
ja.wikipedia.org - 伝馬町牢屋敷 - Wikipedia
ja.wikipedia.org - 【公式】大経寺
daikyoji.jp - 江戸時代に大坂にあった刑場の名称と場所を知りたい。 | レファレンス協同データベース
crd.ndl.go.jp - 飛田墓をたずねて
yonezawakoji.com - ja.wikipedia.org
- 増脩改正攝州大阪地圖(文化3年・1806/国立国会図書館デジタルコレクション)
dl.ndl.go.jp
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :出典に挙げていた個人運営の解説サイトを外し、鈴ヶ森刑場跡に建つ大経寺の公式サイトに差し替えた。当該サイトは「江戸には処刑場が2か所」としており、本文の三か所という数え方を支えていなかったためである。あわせて、街道沿いに置かれた理由を浪人対策としていた記述を落とし、大和田刑場の位置を「甲州街道沿い」から大経寺の記載どおり「八王子・浅川河原」に改めた。数え方と呼び方が資料によって揺れることも本文に書き足した。
- :本文の説明の文を8か所、削るか短く改めた。年代・出典・引用の内容は変えていない。
- :鳶田(飛田)の節を出典の書き方に合わせて改めた。刑場・墓地が1874年に阿倍野・長柄などへ統合移転したとの記述は、出典に年も「長柄」も無いため、郷土史ブログの「阿倍野墓地に集約された」という書き方にした。1916年は飛田遊廓の開業でなく指定の年とし、開廓式を1918年12月と添えた。代替地の由来は曽根崎新地を外し、1912年の難波新地乙部遊廓の焼失とした。遊廓の地は今宮村でなく天王寺村の別の町域に改め、出典に飛田遊廓の項を加えた。また、国立国会図書館のレファレンス記録によるとしていた「大坂七墓の一つ」は同記録に無いため、墓の記載は古地図によるものと書き分け、七墓の一つは「伝わる」にとどめた。
- :「三大刑場」という呼び方を改めた。大経寺は江戸の三か所の処刑場を挙げるが、三大刑場とは呼んでいないためだ。説明文・本文・見出し・図の説明と、図2点の中の文字を「三か所の刑場」などに直した。関連記事へのリンクの題名も、その記事の今の題名「江戸の刑場跡はいまどこに — 鈴ヶ森・小塚原・伝馬町牢屋敷の現在」に改めた。
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