処刑場跡地とは-なぜ街道沿いに置かれたのか
引っ越し先の住所を調べていたら「昔ここは処刑場だった」という書き込みに行き当たった。あるいは旅先のホテルの立地について、似たような話を聞いた。そういう人がこのページにたどり着いていると思う。先に結論を書く。江戸時代の刑場は、都市の中心ではなく、街道の出入り口や町外れに意図的に置かれていた。そして跡地の正確な境界は、今もほとんどの場所で資料が一致していない。
刑場が街道沿いにあった理由
江戸時代の刑場は、隠すためではなく、見せるために作られている。
江戸には「三大刑場」と呼ばれる刑場があった。東海道沿いの鈴ヶ森刑場(品川区南大井)、日光街道・奥州街道沿いの小塚原刑場(荒川区南千住)、甲州街道沿いの大和田刑場(八王子市)。方角は南・北・西とばらばらだが、共通しているのは「江戸に出入りする者が必ず通る道沿い」という立地だ。
理由は単純で、見せしめだった。17世紀中頃は浪人の増加とそれに伴う犯罪の急増が幕府の課題で、江戸へ入ってくる人間、特に浪人に対して警告を発する場所として、あえて人通りの多い街道筋が選ばれたとされる(歴史文化探訪ラボの解説記事による)。刑場を町の奥に隠さず、玄関口に置く。都市計画としては合理的で、同時に相当に露骨なメッセージでもある。
もう一つ見落とされがちな役割が供養だ。刑場には死者を弔う寺院がセットで併設されることが多い。小塚原刑場では1667年(寛文7年)、本所回向院の住職・弟誉義観が死者の埋葬供養のために常行堂を建て、これが後の南千住回向院になった。処刑と供養は、同じ場所で表裏一体に営まれていた。
江戸三大刑場、今どうなっているか
鈴ヶ森刑場は1651年(慶安4年)開設、1871年(明治4年)閉鎖。220年間で10万人とも20万人ともいわれる人数が処刑されたというが、この数字自体は正確な記録に基づくものではなく、あくまで伝えられている規模感として捉えるべきだろう。跡地は現在、隣接する大経寺の境内になっており、火炙用の鉄柱や磔用の礎石が今も残る。境内は見学できる場所として整備されている。
小塚原刑場は同じく1651年創設、1873年(明治6年)廃止。創設から廃止までの間に20万人以上が処刑されたとされる。跡地は南千住駅西側、常磐線と東京メトロ日比谷線に挟まれた延命寺の敷地内にある。明治期に鉄道が敷地の中央を通ったことで、北側が回向院、南側が延命寺として分断されたという経緯も興味深い。
伝馬町牢屋敷は少し性質が違う。ここは牢獄そのもので、斬首(獄門・死罪・下手人)や敲(たたき)、入れ墨刑の執行場所だった。安政の大獄で吉田松陰が刑死したのもここで、跡地の十思公園には「松陰先生終焉之地」の碑が立つ。牢屋敷は1875年(明治8年)まで機能し、現在は東京都指定文化財(旧跡)として公園の一部にその痕跡を残している。
三つに共通するのは、どこも「跡地の正確な範囲」を厳密に確定できていない点だ。当時の検地図と現在の地番はそのまま重ならないし、寺の境内・公園・駅前広場という形で分散して痕跡が残っているにすぎない。「ここからここまでが刑場だった」と線を引ける場所は、実は一つもない。
大阪の千日前 — 繁華街の下にあった刑場
大阪にも同じ構造の場所がある。千日前だ。
江戸時代、現在の千日前一帯(当時の難波村北端)には「千日刑場」(別名・道頓堀刑場)と「千日墓所」が置かれていた。正徳年間(1711-1716年)の記録には「千日御仕置場」という呼称も確認されている(国立国会図書館レファレンス協同データベースが藤井嘉雄『大坂町奉行と刑罰』を典拠に確認)。刑場が明治初年(1870年から1874年頃、資料によって年次に幅がある)に廃止された後、墓地は阿倍野方面へ移転。跡地はしばらく買い手がつかず塩漬けになっていたが、やがて見世物小屋・興行街として再開発され、今の繁華街につながっていく。
刑場・墓所という土地の履歴があったからこそ、後に法善寺や竹林寺が墓地脇に建立され、死者供養の「千日回向」が営まれた。これが「千日前」という地名の由来になったという説がある。処刑の記憶を塗り替えたのではなく、供養の場としてその上に町が積み重なっていった、という方が実態に近い。
この土地の詳しい変遷は「[千日前 刑場・墓所跡](../spots/13.html)」のページにまとめてある。
鳶田(飛田) — 「刑場跡=遊郭跡」という通説の危うさ
千日前と並んで大坂にもう一つあった刑場が、鳶田(とびた)刑場だ。場所は摂州西成郡今宮村鳶田、現在の西成区太子一丁目付近にあたる。国立国会図書館のレファレンス記録によれば、ここには大坂七墓の一つ「鳶田(飛田)墓地」と、磔・火罪などを執行する刑場が設けられていた。1803年の古地図にも「鳶田墓」「刑場」の記載が確認できる。
ここでインターネット上によく流布しているのが「刑場・墓地の跡地に飛田遊郭ができた」という説だ。だが、これは調べていて意外だったのだが、古地図まで遡って考証している郷土史ブログ(米澤光司氏)を読むと、話はそう単純ではない。1874年(明治7年)に刑場・墓地は阿倍野・長柄などへ統合移転し、1903年頃の地図では鳶田の当地は更地化していたことが確認できる。一方、飛田遊廓が指定・開業したのは1916年(大正5年)、難波新地・曽根崎新地が焼失した後の代替地としてで、場所は天王寺村字堺田、現在の西成区山王三丁目だ。同ブログの古地図考証では、鳶田墓地・刑場は紀州街道沿いの道外れ(現在のJR新今宮駅南側、太子一丁目付近)にあり、飛田遊廓の堺田はそこから見て北西寄りの別の町域だとされている。
つまり「刑場・墓地の跡地=遊郭」という等式は、少なくとも現時点で確認できる資料の範囲では成り立たない。同じ今宮村域内の近い土地ではあっても、地番としては別だという考証があるということだ。この一帯を調べる時は、鳶田(太子一丁目)と飛田遊廓(山王三丁目)を混同しないことが最初の一歩になる。
こちらも個別ページで年表を含めて詳しく整理してある。「[鳶田(飛田)刑場・墓所跡](../spots/15.html)」を参照してほしい。
「跡地のホテル」を探している人へ
このページに来た人の中には、もっとピンポイントに「自分が泊まる/住む建物が処刑場の跡地なのか」を知りたい人もいるはずだ。
正直に書くと、それに一言で答えるのは難しい。江戸の三大刑場でさえ、寺の境内や公園という点でしか痕跡を追えず、面としての正確な境界は資料間で一致しない。まして千日前や鳶田のように、明治期の移転・区画整理・戦災・再開発を何度も経た土地となると、「この建物の真下」まで特定できる一次資料はほぼ残っていない。
だから、この記事も含めて「跡地の正確な範囲は諸説あり、断定はできない」というのが誠実な答えになる。分かるのは「この町域一帯に、かつて刑場・墓所があった」という広がりの単位までだ。それ以上を断定するサイトを見かけたら、むしろ出典を疑ったほうがいい。
気になる場所の痕跡濃度を見てみる
処刑場跡は、水・戦・死・地・方位・噂という土地の記憶の中でも、供養の歴史が特に色濃く残る場所だ。今の自分の生活圏に、どんな履歴が積み重なっているかは、住所を起点に眺めてみないと分からない。
あなたの住所の周りに、どんな痕跡が残っているか。→ [痕跡マップで痕跡濃度を測ってみる](../index.html)
参考・出典
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E3%83%B6%E6%A3%AE%E5%88%91%E5%A0%B4
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%88%91%E5%A0%B4
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E9%A6%AC%E7%94%BA%E7%89%A2%E5%B1%8B%E6%95%B7
- https://rekilabo.com/syokeijyo/
- https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000176562
- https://yonezawakoji.com/tobitanohaka/