蓮台野(平安京の葬送地・千本ゑんま堂)|何があった場所か
平安京の北、船岡山の西から紙屋川に至る一帯に広がったとされる葬送の地。東の鳥辺野、西の化野とともに葬地として知られたと伝わり、その入口にあたるとされる千本ゑんま堂では今も供養の営みが続いている。
時のながれ
- 平安時代 — 平安京北郊の船岡山西麓から紙屋川に至る一帯が葬送の地とされ、東の鳥辺野・西の化野とともに葬地として知られたと伝わる(洛北七野の一つ)。
- 平安時代前期 — 小野篁が蓮台野の入口にあたるこの地に閻魔像を安置したのが千本ゑんま堂(引接寺)の始まりと伝わる。
- 960年(天徳4) — 宇多法皇の弟子・寛空が上品蓮台寺を創建したと、『日本紀略』を引く辞典に記される。創建か堂宇の再興かは資料により見解が分かれる。葬送菩提の寺として栄えたとされる。
- 平安時代後期〜 — 後冷泉天皇・近衛天皇の火葬塚がこの地に営まれ、現在も残る。
- 中世〜近世 — 葬送の道沿いに千本の卒塔婆を立てて供養したことが「千本通」の名の由来とする説が伝わる(日蔵上人の逸話にちなむ説など諸説あり)。
- 現在 — 「蓮台野」の地名と千本ゑんま堂・上品蓮台寺などの寺院に、往時の供養の記憶が受け継がれている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- コトバンクの複数辞典(百科事典マイペディア・日本歴史地名大系・デジタル大辞泉ほか)で、船岡山の西から紙屋川に至る一帯に広がった平安京の葬送地とされること、上品蓮台寺や天皇の火葬塚が所在することを確認した。
- 千本ゑんま堂(引接寺)の公式サイトと京都府観光連盟・JR東海のページで、蓮台野の入口と伝わる立地と、現在も続く供養の行事を確認した。
- 京都新聞の連載記事で、蓮台野が船岡山から西の紙屋川に至る一帯で平安時代は葬送の地であったことを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 主域は現在の京都市北区だが、入口と伝わり由緒の明確な千本ゑんま堂(上京区)を代表地点とした。
- 現役の寺院と宮内庁管理の火葬塚のため、参拝マナーへの配慮を案内している。
現地確認: 未実施
参考・出典
- 蓮台野(百科事典マイペディア・日本歴史地名大系・デジタル大辞泉ほか)
コトバンク - 上品蓮台寺(日本大百科全書・世界大百科事典・日本歴史地名大系ほか)
コトバンク - 千本ゑんま堂 引接寺(公式サイト)
引接寺(千本ゑんま堂) - 千本ゑんま堂[引接寺]
そうだ 京都、行こう。(JR東海) - 千本ゑんま堂(引接寺)
京都府観光連盟 - 蓮台野は船岡山から西の紙屋川に至る一帯で平安時代は葬送の地
京都新聞(地名ものがたり) - 千本通
Wikipedia(補助資料)
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この痕跡を掘り下げた記事
近くの痕跡
- 御土居跡(豊臣秀吉が京を囲んだ総延長22.5キロの土塁)(地の痕跡・約645m)
- 船岡山(平安京の北の基点と伝わる玄武の小山)(方位の痕跡・約825m)
- 百々橋の礎石(応仁の乱で東西両軍が争った橋の跡)(戦の痕跡・約1.1km)
- 西陣(応仁の乱の西軍の陣に由来するとされる織物の町の通称)(地の痕跡・約1.1km)