御土居跡(豊臣秀吉が京を囲んだ総延長22.5キロの土塁)|何があった場所か
豊臣秀吉が天正19年(1591)に築いた土塁と堀の跡。京都市によれば延長22.5キロで京を囲み、内側を洛中、外側を洛外と呼んだ。江戸期以降に大半が取り壊され、今は市内9箇所が国の史跡。うち北野天満宮境内の一画は春と秋に公開される。
時のながれ
- 天正19年(1591)閏正月 — 御土居の築造が始まる。2月には過半が完成し、5月頃までに完成したと伝わる。
- 天正19年(1591)3月 — 土塁の上に竹を植えさせたことが三藐院記に見える。
- 江戸時代 — 市街地が洛外へ広がるにつれ、堤防の役割を残すものを除いて次々と取り壊された。
- 明治 — 取り壊しがさらに進み、残る部分はごくわずかとなった。
- 昭和5年(1930) — 市内に残る8箇所が国の史跡に指定される。昭和40年(1965)に北野天満宮境内の1箇所が加わり9箇所となる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 京都市文化財保護課の御土居のページで、天正19年(1591)の築造、台形の土塁と堀からなり延長が22.5キロに及ぶこと、土塁の内側を洛中・外側を洛外と呼び要所に七口を設けたことを確認した。
- 同じ京都市のページで、昭和5年(1930)に市内に残る8箇所が史跡に指定され、昭和40年(1965)に北野天満宮境内の1箇所が追加されて現在9箇所が指定地であることを確認した。
- 京都府教育委員会文化財保護課のページで、天正19年閏正月に建設が始まり2月に過半が完成したと三藐院記にあること、発掘調査で土塁の基底部幅が約20メートル、堀が幅約20メートル・深さ1.5から2メートルであることを確認した。
- 文化庁の文化遺産オンラインで、史跡としての指定年月日が昭和5年7月8日、管理団体が京都市、所在が京都市北区・中京区・上京区であることを確認した。
- 北野天満宮の公式サイトで、境内西側に残る御土居が史跡御土居のもみじ苑として春と秋の時期に有料公開されていることを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標は北区平野鳥居前町の町域の代表点である。御土居は京の町を長く巡る遺構で、一点に絞れる場所ではない。
- 指定地の多くは住宅地や社寺の敷地に囲まれている。訪ねる場合は、公開されている箇所の案内に従うのが前提となる。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 外敵への備えと鴨川の氾濫への備えのどちらが築造の主眼だったかを決められる同時代の記録には到達できなかった。京都府教育委員会は、防御上の必要だけでなく京都の境界を明示する目的もあったと考えられると述べている。
- 延長の数値が資料ごとに異なる。京都市と京都府教育委員会の資料は22.5キロ、京都大学総合博物館の展覧会ページは約23キロ、京都市観光協会の京都観光Naviは24キロである。
- 国の史跡の箇所数も食い違う。京都市と京都府教育委員会の資料は9箇所、京都観光Naviは10ヵ所である。
- 土塁の高さと底辺の幅も一致しない。京都府教育委員会の発掘調査では基底部幅が約20メートル、京都観光Naviは高さ5メートル前後・底辺幅10メートル前後、京都大学総合博物館は高さ3メートルほどである。
- 洛外への出入口の数も、京都市の資料は七口、京都府教育委員会の資料は完成当初10箇所で一致しない。
参考・出典
- 京都市:御土居
京都市文化市民局文化財保護課(京都市公式) - 御土居跡|京都府教育委員会 文化財保護課
京都府教育委員会 文化財保護課(京都府公式) - 御土居 - 文化遺産オンライン
文化庁(国指定文化財等データベース) - 史跡御土居のもみじ苑
北野天満宮(公式サイト) - 御土居絵図デジタルコンテンツ完成記念展覧会 いま、御土居がよみがえる
京都大学総合博物館 - 御土居|京都市公式 京都観光Navi
公益社団法人 京都市観光協会(京都市公式観光サイト)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 蓮台野(平安京の葬送地・千本ゑんま堂)(死の痕跡・約645m)
- 船岡山(平安京の北の基点と伝わる玄武の小山)(方位の痕跡・約1.2km)
- 聚楽第跡(豊臣秀吉の政庁・文禄4年の破却で消えた城)(地の痕跡・約1.4km)
- 西陣(応仁の乱の西軍の陣に由来するとされる織物の町の通称)(地の痕跡・約1.6km)