車石(旧東海道の牛車道)|何があった場所か
京都と大津を結ぶ東海道は、琵琶湖の水運で大津に荷揚げされた米などを京へ運ぶ道であり、荷を積んだ牛車が日常的に往来した。大津市の文化財案内は、江戸時代の街道が土の道であったため雨が降ると地面がぬかるんで牛車の車輪が埋まり進めなくなること、それを防ぐために敷かれたのが車石であることを記し、逢坂山と日ノ岡峠という難所にこの石が敷かれたと説明する。大津市歴史博物館は、大津と京都の間3里(約12キロ)の道に両輪の幅に合わせて2列に石を敷く工事が約200年前に行われたとし、同館の展示目録には文化元年(1804)の大津・京都間道造絵図や石の切り出しに関する請書、文化2年(1805)の山科郷往還筋普請費用請取書が並ぶ。京都市が街道に立てた駒札も、東海道では幕末まで車の往来が禁じられていたが大津と京都の間だけは例外で、人馬の通る道と牛車の通る車道を分け、車道に舗石を並べて車石と呼んだと記す。山科区の旧東海道には、その石が形を変えて残る。京都市山科区役所の街道案内によれば、日岡のバス停の西方の道路脇には名号碑・題目碑・京津国道改良工事紀念碑が並び、題目碑の基礎には多くの車石が使われ、紀念碑の基壇にも深い轍の刻まれた車石が用いられている。京都市のいしぶみデータベースも、昭和8年(1933)建立のこの紀念碑について、3段の基壇に三条街道の車石の廃材が使われていると記す。旧街道が三条通に出合うあたりの石垣には、二条の轍と「旧舗石車石」と刻まれた碑も見える。四宮から追分にかけての旧街道では、街道沿いの石垣などに転用された車石が残るものの、年々少なくなっていると同区の案内は伝える。峠そのものも繰り返し作り替えられた。京都市の駒札は、木食正禅上人が享保19年(1734)頃から改修に取り組み、元文3年(1738)に完成させたと記す。慶応3年(1867)には街道の経路が付け替えられ、明治8年に起工した京都府の工事で峠の道は一丈一尺四寸低くなった。牛車の重みが石に刻んだ溝は、その積み重ねの一部として今も路傍に残る。
時のながれ
- 享保19年(1734)頃 — 京都市の駒札は、木食正禅上人が日ノ岡の峠道の改修に取り組み始めたと記す。
- 元文3年(1738) — 同じ駒札は、車道に土砂を入れて段差をなくし峠の頂上を掘り下げる改修が完成したと記す。
- 文化元年(1804) — 大津市歴史博物館の展示目録は、大津・京都間道造絵図や石切り出しに付き請書がこの年のものであると記す。
- 文化2年(1805) — 同じ目録は、山科郷往還筋普請費用請取書がこの年のものであると記す。
- 慶応3年(1867) — 京都市のいしぶみデータベースは、三条通が峠の前後で付け替えられ現在の経路になったと記す。
- 明治10年(1877) — 京都市山科区役所の案内は、明治8年起工の改修が完成し峠の道が一丈一尺四寸低くなったと修路碑に刻まれていると記す。
- 昭和8年(1933) — いしぶみデータベースは、この年建立の京津国道改良工事竣工紀念碑の3段の基壇に三条街道の車石の廃材が使われていると記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 京都市山科区役所の街道案内は、日岡のバス停の西方の道路脇に名号碑・題目碑・京津国道改良工事紀念碑が並び、題目碑の基礎に多くの車石が使われ、紀念碑の基壇にも深い轍の刻まれた車石が用いられていると記す。
- 京都市のいしぶみデータベースYA096は、昭和8年建立の京津国道改良工事竣工紀念碑(山科区日ノ岡朝田町)の3段の基壇に三条街道の車石の廃材が使われているとし、北緯34度59分53.3秒・東経135度47分47.2秒の座標を示す。
- 同データベースYA089は、日岡峠について江戸時代に街道へ車石という牛車用の軌道を作ったことがあると記し、慶応3年に三条通が峠の前後で付け替えられたとする。
- 京都市山科区役所の別の街道案内は、旧街道が三条通に出合う向かい側の石垣に二条の轍と旧舗石車石と刻まれた碑が見えると記す。
- 京都市が設置した駒札は、東海道で幕末まで車の往来が禁じられていたが大津と京都の間だけは例外で、人馬の道と車道を分け車道に舗石を並べて車石と呼んだと記す。
- 大津市文化財保護課の案内は、雨で牛車の車輪が埋まるのを防ぐために敷かれたのが車石であり、逢坂山と日ノ岡峠という難所に敷かれたと記す。
- 大津市歴史博物館の企画展の解説は、大津と京都の間3里(約12キロ)に両輪の幅に合わせて2列に石を敷く工事が約200年前に行われたと記す。
- 同館の展示目録は、文化元年の大津・京都間道造絵図や石切り出しに付き請書、文化2年の山科郷往還筋普請費用請取書を挙げる。
そのため、このページではこうしています
- ピンは、京都市の記録に座標が示され車石が基壇に転用されている京津国道改良工事竣工紀念碑の位置に置いた。逆ジオコーディングでも三条通沿いの道路脇であり、立ち入りの制限がない。
- 四宮から追分の街道では石垣や軒下に車石が残ると区の案内が記すが、住まいの敷地にあたるため訪問先としては挙げなかった。
- 敷設を主導したとされる人物名は公的資料で確認できなかったため採用しなかった。
- 粟田口刑場は同じ街道沿いに位置するが、車石とは無関係の主題として扱いから外した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 心学者の脇坂義堂が1万両を投じて敷設を進めたとする説明が民間の記事に見えるが、京都市・大津市・大津市歴史博物館の公開資料では人物名を確認できなかった。
- 三条通沿いに車石と牛車を並べた広場が設けられているという情報があるが、京都市の公開資料では名称も整備年も確認できなかった。地図データには御陵岡ノ西町の歩行者用の広場として登録されている。
- 起点と終点を三条大橋と大津八町筋とする言い方が民間の記事に見えるが、公的資料では区間の端を明示する記述を確認できなかった。
- 大宅について、京都市山科区役所の奈良街道の案内には車石の記述がなく、車石との結び付きを確認できなかった。
- 車石という呼称が昭和初期に広まったとする説明の裏付けは、公的資料では得られなかった。
- 敷設の年について、大津市歴史博物館の展示目録には文化元年の絵図や請書と文化2年の請取書がともに並び、一年に絞る記述は公的資料に見当たらないため、両年にまたがる工事として扱った。
- 車石・車道研究会の結成年について、大津市歴史博物館は平成17年とするが2003年とする記述もあり、公的資料の側を採った。
参考・出典
- やましなを歩く東海道3日岡
京都市山科区役所 - やましなを歩く東海道2日岡峠〜蹴上
京都市山科区役所 - やましなを歩く東海道7四宮〜追分
京都市山科区役所 - YA096 京津国道改良工事竣工紀念碑
京都市(フィールドミュージアム京都 いしぶみデータベース) - YA089 日岡峠修路碑
京都市(フィールドミュージアム京都 いしぶみデータベース) - 旧東海道(日ノ岡の峠道)
京都市公式 京都観光Navi - 車石(くるまいし)
大津市 市民部文化財保護課 - 第58回企画展 車石-江戸時代の街道整備-
大津市歴史博物館 - 第58回企画展 車石 展示目録
大津市歴史博物館
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 粟田口刑場跡(旧東海道・九条山)(死の痕跡・約600m)
- 蹴上インクライン(琵琶湖疏水)(水の痕跡・約1.4km)
- 鳥辺野(平安京の葬送地・東山)(死の痕跡・約1.8km)
- 馬町空襲の地(京都で最初の空襲とされる東山・馬町の戦災記録)(戦の痕跡・約2.0km)