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歴史の痕跡

江戸の刑場跡はいまどこに — 鈴ヶ森・小塚原・伝馬町牢屋敷の現在

鈴ヶ森は品川区南大井の大経寺、小塚原は南千住の延命寺、伝馬町牢屋敷は小伝馬町の十思公園。三か所とも場所は特定されていて、寺の境内や公園として訪ねられ、いまは供養の場になっている。ただし跡地の正確な境界までは確定できない。

2026-08-21 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(4項目)

「江戸の刑場跡は、いまどうなっているのか」。この問いには、はっきり答えられる。三つとも場所は特定されていて、寺の境内や公園として整備され、供養の場として普通に訪れることができる。鈴ヶ森は品川区南大井の大経寺、小塚原は南千住の延命寺、伝馬町牢屋敷は小伝馬町の十思公園。

鈴ヶ森・小塚原・伝馬町牢屋敷の街道といまの姿を並べた図だ
鈴ヶ森・小塚原・伝馬町牢屋敷の街道といまの姿を並べた図だ

ただ、「三大刑場」の数え方は資料によって揺れがある。厳密には、鈴ヶ森・小塚原に八王子・浅川河原の大和田刑場(八王子市大和田町)を加えて、大経寺は三か所の処刑場として挙げており、伝馬町は刑場ではなく「牢屋敷」、つまり牢獄とその中の刑執行場だ。

鈴ヶ森刑場跡 — 品川区南大井・大経寺の境内

鈴ヶ森刑場は慶安4年(1651)、東海道沿いの江戸の南の入口に開設された。閉鎖は明治4年(1871)。220年のあいだに処刑された人数について、品川区・東京都・大経寺・しながわ観光協会の公開資料に記載は見当たらない。

跡地はいま、文久2年(1862)に開かれた日蓮宗大経寺の境内になっている。所在地は品川区南大井2-5-6、京急線大森海岸駅から徒歩7分ほど。しながわ観光協会の資料によると、境内には処刑に使われたと伝わる台石や井戸が保存され、供養塔が並ぶ。なかでも高さ3メートルを超える題目供養塔には元禄11年(1698)の銘が刻まれている。刑場の遺構がこれだけまとまって残る場所は都内でも珍しく、昭和29年(1954)に東京都の指定を受けたと大経寺は記す。品川区の文化財一覧では、都指定の旧跡「鈴ヶ森遺跡」(所在地は大経寺内)として載っている。

鈴ヶ森刑場の慶安4年の開設から、昭和29年に東京都の指定を受けるまでを年表にした図だ
鈴ヶ森刑場の慶安4年の開設から、昭和29年に東京都の指定を受けるまでを年表にした図だ

小塚原刑場跡 — 南千住・延命寺の首切地蔵

北の日光街道・奥州街道沿いにあったのが小塚原刑場だ。鈴ヶ森と同じ1651年の創設とされ、明治初めに廃止された。跡地は荒川区南千住2-34-5、いまのJR南千住駅のすぐ西側にあたる。

ここで象徴になっているのが、延命寺の「首切地蔵」と呼ばれる大きな石地蔵だ。荒川区の観光資料は、この地蔵が「当時ここに眠る人々の霊を静かに見守っています」と紹介している。名前だけ聞くと身構えるが、実際には刑死者を弔うために造られた供養の地蔵で、いまも4月の花まつりや11月23日の「いいじぞうえんにち」といった行事が営まれている。

明治期に鉄道が刑場跡のほぼ中央を通ったため、線路の北側が小塚原回向院、南側が延命寺と、供養の場が二つに分かれた。常磐線と日比谷線に挟まれた小さな境内に立つと、刑場の跡地という履歴より先に、鉄道の町・南千住の歴史が折り重なっていることがわかる。この土地の詳しい変遷は「小塚原刑場跡(延命寺・首切地蔵)」のページに年表つきでまとめてある。

鉄道が刑場跡のほぼ中央を通り、線路の北側が小塚原回向院、南側が延命寺に分かれた位置関係を示した図だ
鉄道が刑場跡のほぼ中央を通り、線路の北側が小塚原回向院、南側が延命寺に分かれた位置関係を示した図だ

伝馬町牢屋敷跡 — 小伝馬町・十思公園

伝馬町牢屋敷は、江戸最大の牢獄だった。場所は現在の中央区日本橋小伝馬町3〜5番の一帯。中央区まちかど展示館の資料によると、安永4年(1775)以降の面積は2,677坪余(約8,834平方メートル)に及び、獄舎は大牢・二間牢・揚屋と身分によって区分けされていた。安政の大獄では吉田松陰がここで刑死している。

伝馬町牢屋敷の安永4年以降の面積2,677坪余を示した図だ
伝馬町牢屋敷の安永4年以降の面積2,677坪余を示した図だ

跡地の中心にあたる十思公園には「松陰先生終焉之地」の碑と、都指定文化財の「石町時の鐘」が立つ。処刑の日にはこの鐘を撞く時刻を遅らせて執行を延ばした、という逸話も伝わっている。公園に隣接する十思スクエア別館には小伝馬町牢屋敷展示館があり、牢屋敷の内部模型や、発掘された上水井戸・上水木樋を見ることができる。三か所のなかで、展示として一番体系的に学べるのはここだ。

訪ねる前に知っておきたいこと

三か所に共通するのは、どこも「跡地の正確な境界」までは確定できないことだ。寺の境内・公園・碑という点で痕跡が残っているにすぎず、「この建物の真下が刑場だった」と断定できる一次資料はほぼない。この構造は大阪の千日前や鳶田(飛田)も同じで、詳しくは親記事の「処刑場跡地とは-なぜ街道沿いに置かれたのか」にある。街道の峠と鴨川の河原に置かれた京都の粟田口・六条河原も、立地の考え方は変わらない。

そしてもうひとつ。三か所とも、いまは供養の場だ。大経寺も延命寺も現役の寺院で、地元の人が手を合わせに来る。江戸の都市の仕組みと、その後300年の供養の積み重ねが、そこに残っている。

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この記事の場所のそばにある痕跡

小塚原回向院の周りには、荒川区の痕跡が4件ある。

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参考・出典

5件出典に基づいて掲載している

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