千日前の刑場はどこにあったのか — 現在の地図で場所をたどる

江戸時代、千日前一帯には刑場と墓所があった(千日墓所)。火葬場も併設されていたと伝わる(併設は伝承にとどまる)。明治期に阿倍野へ移転し、跡地は興行街→現在の繁華街へと変貌した。
時のながれ
- 江戸期 — 千日前一帯(難波村北端)に千日刑場(別名・道頓堀刑場)と千日墓所が置かれた。正徳年間(1711-1716年)には「千日御仕置場」の呼称が確認される。
- 明治 — 明治初期に刑場は廃止され、墓地は阿倍野方面へ移転した。年は資料により1870年・1874年と分かれる。跡地は当初買い手がつかず、後に見世物小屋・興行街として再開発された。
- 現代 — 跡地は千日前商店街を含む繁華街として存続している。

近くの痕跡
- 千日前の土地の記憶(来歴の紹介と記録)(噂の痕跡・約115m)
- 千日デパート火災の地(死の痕跡・約280m)
- 「難波」地名の由来(難波津・波速説・魚庭説の諸説併存)(地の痕跡・約476m)
- 難波新川(難波入堀川)跡(水の痕跡・約538m)
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 刑場と墓所がこの一帯にあったことは、国立国会図書館のレファレンス(藤井嘉雄『大坂町奉行と刑罰』)で確認した。
- 墓地の移転と刑場の廃止の年は、コトバンク掲載のブリタニカ国際大百科事典が1874年(明治7年)とし、刑場の廃止を1870年(明治3年)とする資料もあるため、ひとつに定まらない。
現地確認: 実施済み
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参考・出典
2件出典に基づいて掲載している
- 江戸時代に大坂にあった刑場の名称と場所を知りたい。(レファレンス事例詳細)
国立国会図書館 レファレンス協同データベース - 千日前(センニチマエ)とは? 意味や使い方
コトバンク(日本歴史地名大系ほか)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :編集部の調査メモの、刑場の廃止と墓所の移転の年を改めた。「廃止は1870年頃、移転は1874年で別の出来事」としていたが、出典のブリタニカ国際大百科事典は1874年(明治7年)に墓地の移転と刑場の廃止を並べて記し、廃止を1870年とする資料もあるため、年はひとつに定まらないと書き直した。ページの題名の「処刑場」も、出典の語どおり「刑場」に改めた。
- :9月28日の訂正が調査メモにとどまり、時のながれの明治の項に旧の記述(「1870年頃に刑場が廃止され、墓地は1874年に阿倍野方面へ移転」)が残っていたため、同じ内容に改めた。刑場の廃止と墓地の移転は明治初期とし、年は資料により1870年・1874年と分かれると書いた。
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