歴史の痕跡
うめきたは、墓所だった — 大坂七墓と、盆の夜に一晩で巡る風習
うめきたは、江戸時代の大坂の「七墓」の一つ、梅田墓の跡だ。発掘では江戸末期から明治初期の墓地が見つかり、灯明皿やミニチュアの玩具も出土した。盆の夜には七つの墓所を一晩で巡って無縁仏を供養する風習があり、七墓の跡の多くがいま繁華なのは、当時そこが街の外縁だったからだ。
目次(6項目)
大阪駅の北側、「うめきた」と呼ばれる再開発地区がある。グラングリーン大阪の芝生や高層ビルが並ぶ、いま大阪でもっとも新しい場所だ。
そこは、墓地だった。
大坂には「七墓」と呼ばれる共同墓地があり、盆の夜に一晩でそのすべてを巡る風習があった。 うめきたは、その一つ、梅田墓の跡である。
発掘で分かったこと
大阪市文化財協会の発表によれば、この場所は江戸時代末期から明治初期(19世紀中頃から後半)にかけての墓地である。
石垣で区画した墓地内から1,700体を超える土葬の墓や、火葬された人骨が見つかりました
数字が独り歩きしやすい話だが、出土数は資料によって表記に幅がある。
それよりも、同じ発表にある次の一行のほうが、この場所の性格をよく伝えている。
灯明皿やミニチュアの玩具類などの多彩な副葬品も出土
玩具が副葬されていた。
石垣で区画された墓地に、灯明皿と、小さな玩具。誰がそれを納めたのかは書かれていないが、納めた人がいたことだけは確かだ。
大坂七墓とは
江戸時代の大坂には、七墓(ななはか)と呼ばれる共同墓地があった。
構成は資料によって異なるが、一般に挙げられるのは次の七つである。
七墓の構成には諸説があるため、この表も確定したものではない。
ただ、見ていて気づくことがある。梅田、千日前、飛田。 いずれも、いまの大阪では中心部か、それに準じる繁華な場所だ。
盆の夜に、七つを一晩で巡った
国立国会図書館のレファレンス事例(『大阪史蹟辞典』『上方』第56号による)に、この七墓を舞台にした風習が記録されている。
七墓巡りという。
江戸時代、盆の夜に、七つの墓所を一晩で巡って無縁仏を供養するというものだ。
一晩で七カ所。当時の大坂の市街を考えれば、梅田から飛田まで直線でも6キロ以上ある。歩いて回れば相当な距離になる。それを、盆の夜に。
無縁仏を供養するという目的が、この風習の性格を示している。自分の家の墓を参るのではない。縁のない死者のところを、わざわざ回る。
供養であると同時に、若い男女が連れ立って夜歩きをする機会でもあったと伝えられる。信仰と遊興が同じ夜に同居していた。盆という時期そのものが、そういうものだったのだろう。
なぜ、いま全部が街の中心にあるのか
七墓の跡地が現在どこも繁華な場所である理由は、単純だ。
当時は、そこが街の外だったからだ。
墓所は市街の外縁に置かれる。江戸時代の大坂の市街は、いまよりずっと狭かった。梅田は大坂の北のはずれ、千日は南のはずれ、鳶田はさらにその南だった。

そして街が広がった。外縁だった場所が、順に飲み込まれていった。
同じ理屈は処刑場にも当てはまる。処刑場跡地とは — なぜ街道沿いに置かれたのかにあるとおり、こうした施設は街の入口、街道沿い、市街の縁という条件で場所が決まっていた。条件が同じなら、行き着く先も同じになる。
千日前という地名が千日の念仏に由来することも、この文脈の中にある(姉妹サイトの法善寺と水掛不動の記事に詳しい)。あの一帯は墓所と刑場と焼き場が集まる葬送の地であり、そこで営まれた千日にわたる念仏回向が地名として残った。

大阪でいちばん賑やかな場所の名前が、供養に由来している。
南浜だけは、いまも墓地である
七つのうち、南浜は大阪市設南浜霊園として現在も同じ場所にある。北区豊崎一丁目。蒲生と並んで、七墓のうち場所が特定できる数少ない例だ。

街が広がっても、そこだけは移されなかった。
移された墓所と、残った墓所。その差がどこから来たのかは分からない。ただ、地図の上では、梅田の墓所から南浜霊園まで1キロほどしか離れていない。片方は再開発地区になり、片方は霊園のままという並びが、いま北区にある。
まとめ
うめきたの地面の下に何があったかは、大阪市文化財協会が公表している。江戸末期から明治初期の墓地であり、石垣で区画され、灯明皿や小さな玩具が納められていた。
そして江戸時代の人々は、盆の夜になると、そこを含む七つの墓所を一晩かけて回っていた。縁のない死者のために。
街は広がり、外縁は中心になった。 梅田も、千日前も、飛田も、かつては同じ性格の場所だった。いまの賑わいの下に、そういう時間が積み重なっている。
跡地は見物の対象ではなく、いまも人が暮らし、働いている場所である。 訪ねるときの心構えは、処刑場跡地の記事の後半にもある。
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この記事の場所のそばにある痕跡
- 「梅田=埋田」地名伝承(梅田墓所跡 から 地の痕跡・約402m)
- 中津川跡(新淀川に呑まれた旧河道・北区中津)(梅田墓所跡 から 水の痕跡・約424m)
- 曽根崎川(蜆川)跡(梅田墓所跡 から 水の痕跡・約876m)
- お初天神(露天神社)と曽根崎心中(梅田墓所跡 から 噂の痕跡・約936m)
梅田墓所跡の周りには、北区の痕跡が14件ある。
北区の痕跡 14件をひらく →参考・出典
2件出典に基づいて掲載している
- 発掘された庶民の墓 梅田墓 ―大阪市教育委員会・(一財)大阪市文化財協会による発掘調査 写真展―
osakamushis.jp - 元禄~宝永頃に流行った、大阪の七墓めぐりについて記載されている資料を見たい。 | レファレンス協同データベース
crd.ndl.go.jp
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :本文の説明の文を4か所、削るか短く改めた。年代・出典・引用の内容は変えていない。
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