千日前の土地の記憶(来歴の紹介と記録)|何があった場所か
刑場・墓所・大火という履歴を持つ千日前。地元の千日前商店街は公式サイトでこの来歴を紹介しており、現代の出版記事もこの土地の歴史を取り上げている。明治の払い下げでは跡地の買い手がつきにくかったという記録が辞典類に残る。対象は史実そのもの(別項「千日前 刑場・墓所跡」)ではなく、その来歴が現在どう紹介・記録されているかである。
時のながれ
- 1620-1621年(元和期) — 難波村領道頓堀墓所(通称・千日墓地)が造成され、刑場が置かれた。火葬場も併設されたとされる。大坂三郷最大の墓所で、大阪七墓の一つ。
- 1637-1648年 — 法善寺(1637年)・竹林寺(1648年頃)が墓地脇に建立され、死者供養の千日回向を行ったことが「千日前」の地名由来とされる。
- 1870年(明治初期) — 刑場が廃止され、墓地・火葬場は阿倍野等へ移転。跡地は繁華街化が進む。
- 明治期 — 払い下げの際、刑場・墓所の跡地は買い手がつきにくく、灰の処理に補助が出たという記録が辞典類に残る(原典未確認)。
- 1912年(明治45年) — 1月16日「南の大火(ミナミの大火)」で難波新地から千日前一帯が焼失。焼失後、千日前通の開通と楽天地の建設により娯楽街として復興した。
- 現代 — 千日前商店街が公式サイトで土地の来歴を紹介している。出版社の記事もこの土地の来歴を取り上げている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 千日前商店街の公式サイトが、刑場・火葬場・墓地・灰山があったという土地の来歴を現在も紹介している。
- 現代の出版社の記事も、この土地の来歴を「歴史を訪ねる場所」として取り上げている。
- 背景となる史実(刑場・墓所・南の大火)は『日本歴史地名大系』や大阪歴史博物館の展示解説で確認した。
- 紹介のしかたは媒体ごとに異なる。地元の商店街は公式サイト「千日前の歴史」で土地の歩みとして正面から記し、出版記事は「歴史の暗部を訪ねる観光」という切り口で取り上げ、まち歩き団体は刑場・墓地から演芸の町への変遷をたどるコースとして案内している。立場の違う三者のいずれもが、この来歴を隠さず公に紹介している点は共通する。
そのため、このページではこうしています
- ここで起きた出来事には亡くなった方が関わる。対象は、来歴が現在どう紹介・記録されているかという確認可能な事実までである。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 明治の払い下げで買い手がつきにくく、灰の処理に補助が出たという記録は、辞典類を典拠とする記述で確認したもので、原典には到達していない。
- 個々の語りの内容を裏づける資料は確認できない。
参考・出典
- 千日墓所跡(コトバンク・日本歴史地名大系)
平凡社「日本歴史地名大系」 - 大阪歴史博物館 常設展 展示更新情報「南の大火と千日前」
大阪歴史博物館 - 処刑場・墓地から演芸の町への変遷をたどる
大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会(大阪あそ歩) - 千日前の歴史
千日前商店街(公式) - 元刑場、焼き場…『なるほど地図帳』編集部に聞いた“歴史の暗部”を訪ねる観光スポット
NEWSポストセブン(小学館)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 千日前 刑場・墓所跡(死の痕跡・約115m)
- 千日デパート火災の地(死の痕跡・約216m)
- 「難波」地名の由来(難波津・波速説・魚庭説の諸説併存)(地の痕跡・約379m)
- 難波新川(難波入堀川)跡(水の痕跡・約426m)