浄閑寺(新吉原総霊塔・「投込寺」と呼ばれた寺)|何があった場所か
安政2年(1855)の大地震の際、亡くなった新吉原の遊女たちが葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになったと伝わる浄土宗寺院。新吉原総霊塔や永井荷風の詩碑が建ち、供養は現在も続けられている。
時のながれ
- 明暦元年(1655) — 浄土宗寺院として開創。寛保2年(1742)に山門等が建立されたとされる。
- 安政2年(1855) — 大地震で犠牲となった新吉原の遊女たちがこの寺に葬られ、「投込寺」と呼ばれるようになったと伝わる。
- 近代 — 新吉原に関わった人々の供養が続けられ、慰霊のため新吉原総霊塔が建立。土台には花又花酔の句「生れては苦界 死しては浄閑寺」が刻まれている。
- 現代 — 永井荷風の詩碑・筆塚が建ち、毎年4月30日の荷風忌に法要が営まれるなど、供養と記録の場として現在も受け継がれている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 荒川区の公式ページと荒川区立図書館のページで、明暦元年(1655)創建の浄土宗寺院であること、安政2年(1855)の大地震で亡くなった新吉原の遊女が葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになったと伝わること、新吉原総霊塔と永井荷風の詩碑があり毎年4月30日に荷風忌の法要が営まれていることを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 現役の宗教施設のため、参拝マナーへの配慮を案内している。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 葬られた人数について、荒川区立図書館のページは「2万5千人にもいたるとも言われています」と伝承的な表現で記しており、確定した記録としては確認できていない。
- 寺院の公式サイトは接続できず確認できていない。
参考・出典
近くの痕跡
- 小塚原刑場跡(延命寺・首切地蔵)(死の痕跡・約373m)
- 小塚原回向院(刑死者供養の寺・観臓記念碑)(死の痕跡・約529m)
- 千束池(姫ヶ池)跡と「千束」の地名(水の痕跡・約1.0km)
- 石浜城跡(武蔵千葉氏の拠点・石浜神社付近)(戦の痕跡・約1.4km)