千束池(姫ヶ池)跡と「千束」の地名|何があった場所か
浅草寺の北に広がる下町の平地には、中世まで「千束池」「姫ヶ池」と呼ばれる池沼が広がっていたとされる。明暦の大火後、湿地の一部を埋め立てて新吉原遊廓が移されたと伝わり、町名「千束」が今もその記憶を留める。埋め残された花園池(弁天池)も昭和34年(1959)にほぼ埋め立てられ、今は吉原弁財天と跡碑が残るとされる。

近くの痕跡
- 新堀川跡と合羽橋(かっぱ橋の地名由来)(水の痕跡・約683m)
- 浄閑寺(新吉原総霊塔・「投込寺」と呼ばれた寺)(死の痕跡・約1.0km)
- 小塚原刑場跡(延命寺・首切地蔵)(死の痕跡・約1.0km)
- 「浅草」の地名由来(地の痕跡・約1.0km)
時のながれ
- 古代〜中世 — 浅草北部の低地に千束池・姫ヶ池と呼ばれる池沼が広がっていたとされる。中世には一帯が「千束郷」と称されたと伝わる。
- 明暦3年(1657) — 明暦の大火後、幕府の命で湿地の一部が埋め立てられ、日本橋の吉原遊廓がこの地へ移されたとされる(台東区教育委員会説明板)。
- 大正12年(1923) — 埋め残された花園池(弁天池)に関東大震災で多くの人が避難し、約490人が亡くなったと伝わる。
- 昭和34年(1959) — 弁天池もほぼ埋め立てられ、現在は吉原弁財天と跡碑、そして町名「千束」が往時を伝えるのみとされる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 池があったことは『台東区史 沿革編』の姫ヶ池・千束池の記述を、国立国会図書館のレファレンス(回答館は台東区立中央図書館)で確認した。東京地質調査業協会の技術ノートも「旧千束池」として、浅草公園の西側から吉原方面の低地に池沼があったと記している。
そのため、このページではこうしています
- 座標は現在の町域の中心で、池の範囲は分かっていない。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 東京地質調査業協会の技術ノートは、町名「千束」を「かつての沼の名称を継承した町名」と記す。ただし地名の由来には千僧供料説、千束分の稲田説もあり、池に由来すると定まってはいない。地名の由来には千僧供料説、千束分の稲田説などがあり、池に由来するとは限らない。
- 姫ヶ池という名の由来について、図書館(台東区立中央図書館)の回答は該当資料なしとし、「資料がほとんど皆無に等しいとの記述もある」と添えている。
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 千束にあった「姫ヶ池」の名前の由来が知りたい(回答館:台東区立中央図書館)
国立国会図書館 レファレンス協同データベース - 技術ノート No.39「東京の地名と地形」③千束池(浅草、下谷周辺)
東京地質調査業協会 - 新吉原花園池(弁天池)跡 説明板(台東区教育委員会)転記
Monumento(説明板原文:台東区教育委員会) - 千束
Wikipedia(補助資料)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :まだ分かっていないことの2項目と時のながれの2項目、参考・出典の表題を改めた。主な変更は、町名「千束」と池を結ぶ資料は無いとしていたが、出典の東京地質調査業協会の技術ノートが「かつての沼の名称を継承した町名」と記すため、そのことと、ほかの由来の説もあることを並べたことだ。時のながれの吉原遊廓の移転先は、説明板が記すのは「この地」までなので「千束4丁目付近」を外した。「室町時代初期」も出典どおり「中世」とした。
- :9月28日に時のながれの吉原遊廓の移転先から町名を外したが、明暦3年の項の末尾に旧の記述(「移転先はいまの千束三・四丁目の一部にあたるとされる」)が残っていたため、この一文を外した。説明板が記すのは「この地」までである。
- :説明文に、時のながれにある、花園池(弁天池)の埋め立てと、今残る吉原弁財天と跡碑を足した。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。