小塚原刑場跡(延命寺・首切地蔵)|何があった場所か
小塚原刑場は、品川の鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸の刑場で、いまの東京都荒川区南千住のあたりにあり、明治時代の初めに廃止されるまで磔・斬首などが行われたと荒川区は記す。刑場のあった一帯に建つ延命寺(荒川区南千住2-34-5)には、刑死者を弔うため寛保元年(1741)に建てられた、高さ4メートル近い首切地蔵が立つ。
江戸時代、品川の鈴ヶ森と並ぶ刑場が置かれた地。1741年建立の首切地蔵(荒川区指定文化財)が延命寺に現存し、刑死者の菩提を弔い続けている。供養のために開かれた小塚原回向院は線路を挟んだ北側にある(別項参照)。

近くの痕跡
- 浄閑寺(新吉原総霊塔・「投込寺」と呼ばれた寺)(死の痕跡・約373m)
- 小塚原回向院(刑死者供養の寺・観臓記念碑)(死の痕跡・約385m)
- 千束池(姫ヶ池)跡と「千束」の地名(水の痕跡・約1.0km)
- 石浜城跡(武蔵千葉氏の拠点・石浜神社付近)(戦の痕跡・約1.1km)
時のながれ
- 江戸時代 — 品川の鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸の刑場として、明治時代初めに廃止されるまで磔・斬首などが執行された。1771年には杉田玄白・前野良沢らが刑死者の腑分けに立ち会い、『解体新書』翻訳の契機となったと伝わる。
- 1741年(寛保元年) — 刑死者の菩提を弔うため、高さ4メートル近い首切地蔵が建立された(現・延命寺境内、荒川区指定文化財)。
- 明治時代以降 — 刑場は明治初期に廃止。明治28年(1895)の土浦線(現在のJR常磐貨物線)の敷設工事で敷地が線路に分断され、南側が延命寺(首切地蔵)、北側が回向院として現在に至る。
- 昭和57年(1982) — 延命寺が回向院から分院として独立した。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 首切地蔵が荒川区の指定文化財であることは、荒川区の公式で確認した。
- 延命寺が回向院から分院として独立したのは昭和57年(1982年)で、荒川区のアーカイブ記事で確認できる。
そのため、このページではこうしています
- 延命寺と小塚原回向院は線路を挟んだ別の地点にある寺院で、ピンは延命寺の位置である(座標は概略)。
- 現役の寺院であり供養の場である。公開の範囲に従い、堂内・墓所へ無断で立ち入らないこと。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 刑死者の数は、荒川区のアーカイブ記事に伝聞(「言われています」)の形で記されるのみで、確定した数としては確認できない。刑場が設けられた年(慶安年間頃とする資料がある)は、荒川区の資料では確認できない。
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 延命寺(えんめいじ)
荒川区公式サイト - 延命寺・小塚原刑場跡「首切地蔵」
荒川区観光公式サイト - 南千住再発見 延命寺
荒川区(アーカイブ)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :要約の冒頭に、所在地と現状の要約を足した。刑場がどこにあり、跡地がいまどうなっているかが、これまでの要約の先頭からは分からなかったため。まだ分かっていないことの刑死者の数の項も改めた。荒川区のアーカイブ記事は数を伝聞の形で記しているため、確定した数としては確かめられない、とした。時のながれの敷地が分かれた項も、同じ記事どおり明治28年(1895)の土浦線(いまのJR常磐貨物線)の敷設工事によると改めた。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。